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勇敢なフェミニスト、エミリー・ラタコウスキーが見せる「ありのままの姿」

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ハーパーズ バザー・オンライン

私は「個人的にセクシーだと感じる方法で、セクシーだと感じさせる」のが好きなのだ。ではなぜ私は友人の発言を不快に感じたのだろうか?「女らしい」と言われることの何が否定的だったのだろう?そのとき、私は自分がそんなふうに感じていたのは、一部分はあの数えきれない経験のせいだと気が付いた。つまり、もし特定の格好をすれば、真剣に受け止められない、危険にさらされる可能性さえあると言われた経験だ。中学校の先生の「誰にも尊敬してもらえないよ」という言葉が頭の中に響き渡った。それでも、あらゆる不快な発言や警告にもかかわらず、「セクシー」であること、ときに「超女っぽく」あることは、私にとって強さを感じるものになった。 また、それは私らしく感じられ、結局のところ一番満足感を得ることができた。完全に成長した女性として、私は2019年の今、世間がセクシーであるということが何を意味するのかを模索する女性たちをひどく見下していることに相変わらずショックを受けている。

セクシーから分離することへの疑問

女性に対して大いに無礼な態度を取ってきたブレット・カバノーがアメリカの最高裁判所判事に指名されたことに抗議したことで、私がワシントンDCで逮捕されたとき、ニュースの見出しは私が何に対して抗議していたかではなく、どんなシャツを着ていたかということだった。私の抗議目的を完全に支持していたリベラルな女性たちでさえ、私がジーンズと白のタンクトップの下にブラをしていなかったということについてコメントした。みんなの頭の中では、私の体がまる見えだったという事実は、どういうわけか私と私の政治的行為は信用できないものであることにした。一体なぜなのか?私はこのことについてよく考える。 なぜ文化として、私たちは賢明であることや真剣であることをセクシーから分離することを主張するのだろう?歴史的にも神話学的にも、女性は常に信頼できない、脅迫的な、危険なものであるとさえ考えられてきた。イヴは誘惑に満ちあふれ、メデューサは人を石に変えてしまうことができた。カミール・パーリアは1990年の著書『性のペルソナ古代エジプトから19世紀末までの芸術とデカダンス』(河出書房新社)の中で次のように書いている。 「女性の体の耐え難いほど内密で隠れた状態は、男性の女性に対する扱いのあらゆる側面に適用される。そこはどんなふうに見えるのか、彼女はオーガズムに達したのか?本当に俺の子どもなのか?俺の本当の父親は誰だったんだ?謎が女性のセクシュアリティを覆い隠す。この謎こそが男性が女性に課した拘禁の主な理由なのだ。宦官に守られた鍵のかかったハーレムに妻を閉じ込めることによってのみ、彼女の息子は自分の息子でもあると確信できたのだろう」 文化として、私たちは概して女性を怖がっているが、もっと具体的に言えば、女性のセクシュアリティが持つ本質的な力も恐れているのだ。女性があまりにも強くなったために、女性が自分の性を受け入れることから力を得るとき脅威を感じるのである。ゆえに私たちは羞恥を主張する。女性がセクシュアリティを誇示したり、受け入れたりすると女性は何かを失うと主張するのだ。個人的に、私はその反対が真実であることを発見した。

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