「クビになったら…」 名将・野村克也氏が「人生最大の脅し文句」を使った場面とは
〈南海への入団は、こう言っては何だが、驚き、いや、今思えば、裏切りの連続だった。テストを受けて入団したわけだけど、会場の大阪球場には、300人を超える志望者。とても私なんかが受かるとは思えなかった。〉 【写真】仲睦まじい二人 「野村克也氏」と「沙知代さん」
沙知代夫人との交際を巡り監督解任
大阪・難波の「なんばパークス」内にある「南海ホークスメモリアルギャラリー」に、故・野村克也氏の南海時代のユニフォームや、キャッチャーミットなどが展示され、かつてバッテリーを組んだ江本孟紀氏が、会場を訪れた。 戦後初の三冠王にして、選手兼任監督としてリーグ制覇など、南海ホークスのスター選手だった野村氏。だが、後の沙知代夫人との交際などを巡り1977年9月に監督を解任されてから、野村氏と球団の関係は疎遠になっていたこともあり、今回の展示は「44年ぶりの里帰り」としてファンを喜ばせた。
野村氏自身は、南海球団にどのような思いを抱いていたのか。生前に野村氏が明かしていたエピソードを紹介したい(引用は、新潮社刊『野村克也の「人を動かす言葉」』より)。 〈(入団テストの)合間に食堂で、カレーを頼んでね。生まれて初めてのカレーだったので、それに感動して、3杯も食べてしまった。すると、マネージャーにあたる人が言った。 「食が細い奴は、この世界じゃ大成しないから、お前は見込みがあるな」 実際、7人いた合格者の1人が私だったんだ。喜ぶのも束の間、妙なことに気づいた。そのうち4人がキャッチャーだったんだよ。いくらなんでも偏り過ぎているよな。しかも、それら捕手の出身地を聞いたら、いずれも聞いたことのない地名ばかり。なんというか……私も含め、洗練された人材という感じがしなかったのは事実だ。 それもそのはず。実は球団がこの時、求めていたのは、ブルペン・キャッチャーだったんだよ。投手の数に比べて、捕手が少なかったんだな。当然、私もその1人だったわけだ。言うなれば“壁”を求めていたわけ。ショックだったよ。 そんな経緯だから、テスト生待遇で、契約金もなかった私だけど、これでプロ野球選手になれたわけだから御の字か。給料提示の瞬間が待ち遠しくなった。仮契約の場で、初めてその金額を聞いた時は驚いたね。高校出の初任給が、月額6千円だった時代だよ。「8万4千円」。今の価値で言えば、200万円以上だ! ところが、喜んでいる私を怪訝に思ったのか、マネージャーが言った。 「よく読んだか? それ、年俸やで」〉 入団当時の野村氏の背番号は「60」。だが、ユニフォームは当時の鶴岡一人監督のお古で、鶴岡監督の背番号「30」の「3」を「6」に付け替えてあった。サイズがきついので、それを愚痴ると、マネージャーから「お前の体を合わせろ」と一喝されたという。 〈この逸話のみならず、球団は当時から「ケチの南海」で有名でね。寮で出る食事は、味噌汁、御飯に、オカズが一品。それはいくら食べても良かったんだけど、オカズと言っても漬物だよ。しかも、卵を頼むと別料金が発生するんだから、今のプロ野球の寮生活からすれば、隔世の感だよね。栄養として卵は大事だし、私も、御飯にかけるのはもちろん、自分で目玉焼きにしたり卵焼きにしたり……さまざまなアプローチを試みたもんだ。〉