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<西野亮廣>ゴミ人間~『えんとつ町のプペル』誕生の背景と込めた想い~「えんとつ町のプペルが生まれた日」【短期集中連載/第4回】

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ザテレビジョン

芸人、絵本作家ほか、ジャンルの垣根を飛び越えて活躍する西野亮廣。2016年に発表し45万部を超えるベストセラーとなっている絵本『えんとつ町のプペル』だが、実は映画化を前提として設計された一大プロジェクトだった。構想から約8年、今年12月の映画公開を目前に、制作の舞台裏と作品に込めた“想い”を語りつくします。第4回目は、映画で遂に全貌が明らかになる『えんとつ町のプペル』が生まれたときの社会そして西野亮廣の状況、さらに「やりたいことをやる」ための環境を整えれば整えるほど浴びるバッシングとの葛藤を打ち明けます。 【画像を見る】映画『えんとつ町のプペル』より。絵本にはなかったシーン、キャラクターが数多く描かれ、西野亮廣がこの作品に込めた思いが明らかになる ■ 「商品」と「作品」と「マーケティング」 本題に入る前に「商品」と「作品」、そして「マーケティング」の意味(役割)をそれぞれ整理しておきたいと思います。 僕の中で、商品は「販売を目的として生産されたもの」で、作品は「作者の思想を具現化したもの」と位置づけています。マーケティングは「お客様に届ける作業」と言えますが、そこには「リサーチ」や「宣伝活動」など様々な仕事が含まれているので、少しややこしいですね。ここは「マーケティングが差し込まれているタイミング」で、「商品」と「作品」を分ければスッキリと整理できるかなぁと思っています。 つまり、「マーケティング(ニーズの調査)を済ませた後に生産されるものが『商品』」で、「生産された後にマーケティングによって届けられるものが『作品』」であると。いずれにしても、お客様に届かなければ意味がないので、「マーケティング」は必要不可欠です。その上で、僕は「作品」にしか興味がありません。 ニーズに合わせに行く生き方を選ぶのであれば、「ひな壇」に出ていました。ニーズに合わせに行く生き方を選ぶのあれば、僕は、絵本作家という道に進まず、あのままテレビの世界にいたと思います。 「今は○○が流行っているから、こういう物語を書こう」という考えは僕には一切ありません。僕は、流行り廃りなど関係なく、一貫して自分自身の物語しか書きません。僕は「特別な人間」ではなくて「少数派」です。なので、僕の物語を書けば、世界のどこかにいる僕と同じ境遇にいる人に刺さると信じています。そんなこんなで本題に入ります。 ■ 世界の終わりを少しだけ信じた日 1990年代後半は「人類滅亡ブーム」でした。ノストラダムスという予言者が残した「1999年7の月、空から恐怖の大王が降ってくる」という予言を、日本中が拡大解釈し、「核戦争が始まる」だの、「宇宙人が攻めてくる」だの。今となっては笑い話ですが、あの頃、僕らは1999年7月に世界の終わりがやってくることを少しだけ信じていました。 僕が子供の頃のテレビは、ゴールデンタイムで「心霊特番」や「UFO特番」がたくさんやっていて(徳川埋蔵金なんかもよく掘ってたな)、その夜は、幽霊に怯え、宇宙人の襲来に怯え、なかなか眠れませんでした。星がたくさん出た夜は、空を見上げて、飽きるまでUFOを探したものです。 そして、世界が終わるハズの1999年7月がやってきました。人類滅亡を信じ、絶望し、学校を休む人までいたみたいですが、世界は終わりませんでした。何事もなく8月になりました。 それでも僕らは世界の終わりをまだ信じていました。まったく懲りていません。誰かが「予言は外れていない。これは誤差だ」と言い出して、次に『2000年問題』という言葉が出回りました。「1999」から「2000」に変わる瞬間に、一から千までの全ての位の数字が変わってしまうことでコンピューターが誤作動を起こし、コンピュ―ター制御されている社会がパニックに陥るという都市伝説です。「間違って核ミサイルも発射されてしまう」と信じ、「今度こそ世界が終わる」と塞ぎこんでいる人もいました。梶原君はその一人(笑)。 ところが2000年になっても世界は終わりませんでした。僕らは、ついに観念し、ノストラダムスの大予言が外れたことを認めました。 時を同じくして、インターネットがやってきて、「答え合わせ」ができる世界になりました。おかげで、あれだけ心臓をバクバクさせて観ていた「心霊特番」や「UFO特番」も消え、まもなく僕らの身の回りは正解で溢れました。徳川埋蔵金が掘り起こされたどうかはネット検索すれば出てくるので、その手の特番もなくなりました。 ノストラダムスの大予言が外れたあの日、僕らは長い長い夢から覚めました。もしかすると、あの予言は当たっていたのかもしれません。一つの世界はたしかに終わりました。個人的には、嘘やデタラメが許されたあの世界が結構好きでした。 あの日を境に世界は駆け足で正しくなりました。夢を語れば笑われて、行動すれば叩かれてしまうので、もう誰もバカなことを言い出しません。もう誰も見上げることをしません。皆、足元を確認しながら歩くようになりました。互いの行動を監視し合い、少しでも踏み誤ると容赦なく叩く。おかげで世界はすっかり正解で溢れましたが、まもなく僕らは、正解で溢れた世界がこんなにも息苦しいことを知ります。だけど、誰も、この世界の緩め方を知りません。きっと僕らは、こんな未来を望んでいなかったハズです。この状況を描いたのが『えんとつ町のプペル』です。 ■ どうして僕を殴るのだろう? 煙突から上がった黒い煙のせいで、『えんとつ町』に住む人は、青い空も輝く星も、見上げることも知りません。そんな中、空を見上げようとする者を、町の皆は容赦なく攻撃します。これは現代社会の縮図であり、当時の僕が置かれていた環境です。 僕は、自分の人生の時間を使って、自分の身体を使って、自分が責任を取れる範囲で挑戦をしているのに、どういうわけか日本中から殴られ続けます。僕が「ひな壇」を辞退し、僕が絵本作家になることで、皆にどんな迷惑がかかっているのだろう? どうして皆はわざわざ僕に時間を使い、僕の行動を逐一チェックし、わざわざ僕を殴るのだろう? そこで、彼らを敵に回すのではなく、彼らに寄り添って考えてみることにしました。「きっと彼らにも痛みがあるハズだ」と。 そりゃ、悔しいですよ。自分を殴ってくる人間に、自分から寄り添うなんて。ですが、彼らが挑戦者を執拗に殴り続ける理由を正確に割り出さない限り、『えんとつ町』という問いが解けることはありません。この世界を覆う煙が消えることはありません。そう覚悟した日から、この息苦しい世界の正体が見えてきました。原因を整理すると、きっとこんなところです。 ・皆、もともと、夢の類を持っていたのだけれど、大人になる過程で、己の能力や環境を鑑みて、折り合いをつけて捨ててしまった。 ・そんな中、「皆が折り合いをつけて捨てたモノ(=ゴミ)」をいまだ持ち続け、丁寧に磨き、輝かせようとしている者がいる。 折り合いをつけて捨てた人達からすると、なんとも迷惑な話です。まかり間違って、そのゴミが輝いてしまうと、あの日、夢を捨ててしまった自分の判断が間違いだったことを認めなくちゃいけなくなります。そりゃ、「さっさと捨てろよ」という考えにもなる。 「ゴミ人間」は、皆が折り合いをつけて捨てた夢の集合体。そして「ゴミ人間」は、折り合いをつけて夢を捨てた人達の間違いを証明しようとしている。無自覚に。これは「脅し」に近い行為です。実は、先に攻撃を仕掛けているのは、「ゴミ人間」の方で、これこそが挑戦者が皆から殴られる理由だと結論しました。 僕はずっと被害者だと思っていたのですが、こうして切り取る角度を変えてみると、ご覧のとおり加害者です。『えんとつ町』というテーマを選んでおいて、ここを描かないのは(一方の視点からしか描かないのは)フェアではないので、『えんとつ町のプペル』には「殴ってしまう人」の物語(痛み)もキチンと入れることに決めました。 ■ すべては映画のチラシだった ところが、今、お話しした「殴ってしまう人」の物語は、絵本『えんとつ町のプペル』には出てきません。さらには、「えんとつ町」という町が生まれた理由も、町を支配している「異端審問所」も、なによりも、物語の主人公である「ブルーノ」という紙芝居屋も、絵本『えんとつ町のプペル』には出てきません。この話をすると、いつも少しだけ驚かれます。 冒頭に申し上げたとおり、僕は作品に興味があり、届け方(アプローチ)を決めるのは、その後。まずは自分が描きたいものを全力で描き殴って、「さて、どう届けようかしら?」という順番です。 『えんとつ町のプペル』という物語を描き終えたときに、「この作品は映画で届けるべきだ」と思いました。ところが、誰も知らない作品を観る為に、わざわざ映画館まで足を運んでくれる人などいません。何より、アニメーション映画を一本制作するとなると、大きな予算が必要になってきます。誰も知らない『えんとつ町のプペル』に、そんな予算がつく理由は一つもなく、映画化なんて夢のまた夢。 そこで、まずは絵本として世に出して、認知を獲得し、その後、映画に繋げようと考えました。絵本の届け方に関しては手応えを掴み始めていた頃でした。 ところが、『えんとつ町のプペル』は、絵本として出すには物語が長すぎます。「殴ってしまう人」「えんとつ町が生まれた理由」「異端審問所」、そして主人公の「ブルーノ」を入れてしまうと、とても一冊には収まりません。そこで、それらを省き、物語の一部分だけを切り抜いて再編集したのが、絵本『えんとつ町のプペル』です。 絵本『えんとつ町のプペル』は、映画の「チラシ」であり、世間はまだ『えんとつ町のプペル』の主人公を見ていません。「チラシ」というと安く聞こえてしまうかもしれませんが、制作に3年半を費やした「チラシ」です。命を削っていないハズがありません。当時は、絵本『えんとつ町のプペル』の読者の方から「映画みたい」「映画化したらいいのに」という感想をよくいただいたのですが、それもそのハズ、もともと「映画用の作品」だったのです。 ■ クヨクヨしている いつだったか、「作品を作り続ける為にはどうすればいいのだろう?」と考えたことがありました。やっぱり僕は作家でありたいので。たくさんたくさん考えて、「作品の売り上げで次の作品を作ってしまうと、まもなく商品を作る自分になる」という結論に至りました。「作品の売り上げで、次回作を作る」というスタイルには、「作品が売れなかったら、次回作が作れない」というリスクが伴います。そのリスクを回避する為に、多くの作り手が、お客さんのニーズを調べ、売れるような作品を作り始めますが、その順番で作られたモノは「作品」ではなく「商品」です。僕は商売人ではないので、「商品」には興味がありません。 この偏愛を貫き通す為には(世間のニーズなどを無視して純粋に作品を作り続ける為には)、作品以外の売り上げで作品を作れる(食っていける)状態を用意しておく必要があり、今日も、あれやこれやと手を打っています。 この過程を見て、多くの人は「ビジネスマンだ」と言います。時々、同業者からも「商売が上手いよね」と言われます。少し嫌な匂いが混じった言葉です。 心の底ではいつも思っています。フザけるな。僕が一体いつ商売に走ったんだ?ずっとずっと、自分のやりたいことしかやっていない。世間のニーズに合わせて「商品」を作り続けてるのは、お前らの方じゃないか。お前らが、世間を敵に回してでも生み出した「作品」を一つでもいいから今ここで僕に見せてみろ。 …ときどき、こんな感情が湧き上がってきますが、「いやいや、僕が先制攻撃をしてしまっているんだ」と気持ちを収めています。ごめんなさい。「ああ、(こんなことを思っちゃ)ダメだダメだ」と基本的には、ずっとこの繰り返し。思うようにいきません。意外とクヨクヨしています(笑)。 最後に、映画『えんとつ町のプペル』の主人公である「ブルーノ」の言葉を綴っておきます。この台詞は、自分に言い聞かせるように書いたような気がします。 「他の誰も見ていなくてもいい。黒い煙のその先に、お前が光を見たのなら、行動しろ。思い知れ。そして、常識に屈するな。お前がその目で見たものが真実だ。あの日、あの時、あの光を見た自分を信じろ。信じ抜くんだ。たとえひとりになっても」 (第5回は9月21日[月]更新予定)(ザテレビジョン)

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