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~戦後75年・追憶~「本土決戦、“死”に抵抗なし」書写山円教寺住職・第一四〇世長吏・大樹孝啓さん(96)《上》

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 西の比叡山、書写山円教寺。  1000年以上、山上から祈りを捧げる姫路の古刹はハリウッド映画「ラストサムライ」のロケ地にもなった。円教寺住職・第百四十世長吏、大樹孝啓さん(96)は太平洋戦争期間中に海軍航空隊を転戦する。戦争は見える敵が相手だったが、75年経ち私たちの前に立ちはだかるのは見えない敵、新型コロナウイルス。そこである言葉がよぎったという。 ・・・・・・・・・・・  私はね、空襲に遭ったとか激戦地に行ったとか、もろに戦火を浴びたわけではないんですよ。最後の最後に準士官から昇格、いわば「ポツダム海軍少尉」です。しかし終戦ですぐにそんな階級は吹っ飛びましたがね。 ■太平洋戦争の戦況が悪化の一途をたどる昭和19年10月~昭和20年6月、滋賀海軍航空隊(滋賀県大津市唐崎)に入隊  滋賀海軍航空隊は、天台宗の総本山・延暦寺がある比叡山の麓にありました。当時から私は比叡山とのつながりがあったんでしょうね。これも縁かなと思います。陸軍を志願していたらまた別の場所、でも私は海軍を志願したために滋賀に行った。たまたまなんですけどね。徴兵検査を受けていたら北海道に行かされていたかも知れないと、のちに聞きました。見上げれば比叡の山、見下ろせば琵琶湖畔、そこでは毎日が基礎訓練、これがとにかくきつかった。兵舎の中はずっと駆け足でした。 20万人以上の命が奪われた沖縄戦もあり、すでに本土決戦。攻めていくのではなく守る一方。もう戦争一色でしたね。 ■昭和20年6月、千葉県館山市にあった海軍砲術学校へ移る。当時、房総半島沖に米軍の潜水艦が現れ、上陸するという話が信じられていた。敗戦が現実味を帯びてゆく  海軍には陸軍の歩兵隊と同じような陸戦隊があり、館山の学校で鉄砲を持たされたんです。重い鉄砲を持つのが嫌で海軍を志願したのに、そこでまた鉄砲を手にすることになりました。 「米軍が偵察のために潜水艦で出没している。上陸しているかもしれない」と上官に言われ、砂浜に砲台を造って5~6機の大砲を備え付けるんです。潜水艦を攻撃するために。鉄が少ないから(大砲の)筒が短い。  夜間訓練では、米軍の戦車に爆弾を持って突撃する訓練や、米軍が上陸後に張るキャンプから弾薬や食料を盗む訓練をやりました。大日本帝国海軍が泥棒の稽古をやってたんです。そんなありさまでした。当時は各地が空襲に遭い、軍需工場や市街地が爆撃を受けていた。これでは勝てない、内心はそう思っていました。 ■その後、長崎・佐世保の海軍航空隊に。そこで終戦を迎えるが、その6日前の「ある光景」が忘れられない  千葉から長崎へ陸路で向かう途中、空襲で焦土と化した姫路の街が見えた。514人が命を落とした「姫路空襲」は、1945年(昭和20年)6月22日と7月3日深夜~4日の2度にわたった。千葉からの移動はそのあとだった。  姫路は焼け野原。でも姫路城が残っていたのを見てホッとしました。やはり故郷。ここで降りたい、と思いましたよ。しかしね、戦争に行って死ぬというのが当たり前の時代。それどころではなかったし、すぐに気を取り直しました。故郷・姫路の変わり果てた姿を横目に、後ろ髪を引かれる思いで一路佐世保を目指しました。  なぜか? 当時の日本は本土決戦。軍人はみな「死ぬ」ということに抵抗がなくなっていたんです。死ぬのが怖いと思わなくなると、気楽な気分になる。この現実を真に受けて、先を憂いていてもやってられない、これが戦争の怖さです。  私自身は弾が飛び交うなか逃げまどう、命からがら空襲から逃れるという経験はなくても、故郷の惨状を見ると悲しかった。複雑な心境でした。  佐世保へ転戦する少し前の昭和20年4月、戦艦「大和」が沈没したこのあたりから「日本は負けるな」と思っていましたよ。皆、口が裂けても言えなかったけどね。もちろん国家が国民を統制して挙国一致で戦っていたから。  佐世保で夏の陽射しが照りつけるある日、砲台を作ろうと上官らと高台に登ったんです。そのとき、はるか南の空で何かがピカーッと光った。8月9日。不思議な閃光でした。その3日前に「広島に新型爆弾(原爆)が投下された」というラジオ報道は聴いてたけれど、あの時に見たのが長崎原爆だったんですね。  そして15日に終戦、天皇陛下のラジオの玉音放送は雑音でほとんど聞き取れませんでしたが、只事ではないと思いました。敗戦です。正直「やれやれ」と思いました。自分も助かるし日本も助かる。ただし本格的に米軍が日本に乗り込んで、この国の生活は一変するのだろうなと思いましたね。 ■終戦後の昭和20年8月20日ごろ、汽車を乗り継いで姫路の実家に戻った  食うや食わずの生活でした。とにかくコメがなくて。ふかしたジャガイモや、カボチャを煮たものしかない。軍隊では腹一杯食べることはできましたが、姫路に戻ってからは、とにかく食べ物がなくて、生きるのに必死でした。配給のコメも雑炊やおかゆにしてかさを増やしてました。 ■終戦後、円教寺の住職となる前に小学校教諭を務める。時はめぐり、比叡山延暦寺のトップ・天台座主の登竜門とされる戸津説法の説法師に指名され、2010年に天台座主に次ぐ「探題」という位につく  私の青春時代は戦争一色でした。敗戦や戦後の食糧難の時代を経験して、96歳まで生きてこられたのは宗教人としての私にとって神仏の見えない力もあったと思います。それと皮肉にも、海軍時代の訓練で鍛えられた体と「欲しがりません、勝つまでは」という信条、培われた精神力も根底にあったのかも知れません。  この「欲しがりません、勝つまでは」という言葉が、終戦から75年経って新型コロナウイルスという疫病と対峙する時代となり、頭の中をよぎることとなるのです。(8月16日《下》に続く)

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