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ライバル玉の海が急死…人目も構わず泣きました 夕食もせず泣き続けました【北の富士コラム】

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中日スポーツ

◇コラム はやわざ御免 北の富士場所13日目

 横綱への意欲のないままダラダラと大関の座に甘んじているうちに、玉乃島(横綱昇進後に玉の海に改名)、清国が次々と大関に昇進してくる。その後にも実力派の長谷川、若手の輪島や貴ノ花、大受、末は横綱と呼び声の高い北の湖が続く。仲の良かった柏戸さんが引退。一度も稽古しろとは言われなかった柏戸さんに初めて「北の富士、横綱になれよ」と言っていただいた。この一言と若手の突き上げに、どうやら私は燃えたようだ。  一門の高砂部屋にも前の山、高見山、富士桜の好力士がいたことも幸いし、自然と稽古に身が入るようになっていく。1969(昭和44)年秋場所に12勝3敗、久しぶりの好成績にがぜんやる気がメラメラと燃えてくる。そして九州場所で13勝2敗、70(昭和45)年初場所で13勝2敗と連続優勝し、玉乃島と同時昇進となったのであります。  鳴かず飛ばずの長かった大関時代を考えるとあっという間の出来事です。70年春場所、新横綱の私と玉の海そろって13勝2敗。大鵬さんの軍門に下ったのは残念でしたが、横綱の責任は果たせたと思います。続く夏場所で私は初日から快調に飛ばし、14連勝。千秋楽を待たずして優勝を決めています。  千秋楽は憎っくき大鵬戦。ここで負けては男がすたる。決死の覚悟でぶつかり、先に上手を引き、万全の体勢で一気に土俵際まで攻め込みます。「これで勝った」と思いました。しかし、勝利を確信しながら投げて勝ちたいと思ったのが大失敗。その上手投げを大鵬さんに下手投げで打ち返され、逆転されたのです。今でもあの一番は悔いが残っています。「魔が差す」とはあのことだったのでしょう。  翌日の新聞に「北の富士、全勝はまだ早い」と大鵬さんがにっこり笑っているではありませんか。あの時の悔しさは一生忘れないでしょう。その大鵬さんも間もなく引退されました。その後、(玉の海と)2人で優勝を交互に繰り返し「北玉時代」と呼ばれ始めました。特に玉の海の充実は素晴らしく右四つの型は双葉山の再来とも言われたくらいです。  一方、私の方は相変わらず成績にむらがあり、乗ると強いが、負け出すと弱いと言われたものです。いずれにしても「北玉時代」の到来でした。しかし「好事魔多し」とでもいいますか、玉の海が急死したのです。71(昭和46)年秋場所後、かねて悪かった虫垂炎で亡くなったのです。  私は秋巡業で岐阜県羽島市に車で到着したばかり。旅館の前に大勢の人だかり、顔見知りの記者もたくさん来ていました。私はのんびり「俺の悪事がバレたのかな」。にしては…。みんな血相を変えていることに気がつきました。車から降りると「玉の海が亡くなりました。何か感想は」。私はこの野郎、悪い冗談を言いやがると思いましたが、やがて事実を知りました。しばらくの間はとても信じられませんでしたが、事の重大さにも気付かされました。  人目も構わず泣きました。夕食もせず泣き続けました。私と玉の海は「島ちゃん」「北さん」と呼び合っていましたが、それほど親密な付き合いはありません。一門も違うし、2人だけで飯を食べたこともありません。ゆっくり話ができるのは年に一度の横綱会の時くらいなものです。彼は非常に明るい性格でハキハキ物を言い、よく笑う好青年でした。親孝行で、よくお母さんの話をしていました。酒も飲みませんでした。大酒飲みの私と全て対照的でした。  もし彼が生きていたら、おそらく大横綱になっていたでしょう。そして私ももう少し頑張れたかもしれません。悲しみの内に迎えた九州場所は心身ともに参ってましたが、優勝することができました。しかし、72(昭和47)年になってからは、故障続きで休場が続きました。その後、2度の優勝はしたものの、すでに現役を続ける意欲はありません。74(昭和49)年名古屋場所初日から2連敗したところで引退を発表したのです。  横綱の引退は桜の花のように散る。春日野親方(元横綱栃錦)の言葉です。私もそうありたかったのですが、理想通りにはいきませんでした。それだけが残念です。  くしくも今年は玉の海横綱昇進50周年追善相撲が故郷、蒲郡で行われる予定でした。私も記念講演をする予定でしたが、コロナのため中止となりました。10年くらい前にお参りに行ったのが最後だったので残念です。確か銅像もありましたね。お母さんに建てた家は今もあるのでしょうか。家の壁に「お母さん、ありがとう」と自分で作った焼き物が飾ってあったのを覚えています。玉の海は人間としても素晴らしい人でした。それにひきかえ、俺は相変わらず駄目なままです。(元横綱)

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