軍事アナリスト小泉悠と、シャララジマ&リサタニムラが語る映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』
K「ある新聞記者のエッセイで、伊勢湾台風のときに愛知の支局にいたという話があって。沿岸にあった大工場で被害を受けた人がたくさんいたらしいんです。彼は現地の人と惨状を一緒に取材していたら、そこに東京から大物記者が来た。周囲を気にせずに、浸水したところを船で一回りだけして帰ってしまったらしくて。『冷たいやつだな』と思っていたら、その後その人が書いた記事で、大工場で働く人は貧しい人ばかりで、浸水が起きやすい危険な地域に住まわされていたということが分かった。重役たちは高台に住んでいて、みんな無事でしたということを指摘したんだそうです。このように、必ずしも現場で危険にさらされなくても、ジャーナリズムは成立しうると思っているんです。政府とかの公式発表だけを伝えるのであれば、TVも新聞もいらないですよね。政府とは違う視点、政府が知って欲しくないことを提供することが、ジャーナリズムなのではないかと思います」 S「日本はジャーナリズムがうまく機能しているんでしょうか。大学ではマスコミニケーション学部でジャーナリズムを専攻しました。リー達みたいな人たちを思い描いて進学したんですが、正直内容は報道の3原則や記者クラブ的なことを教わって『あれ?』って感じだった。日本では鋭い指摘をしたり、切り込んだ批判的な記事はあまり目にしないし、ジャーナリズムは日本にいると感じにくくて理解できないのかも」 L「報道の自由度も年々下がっている。180カ国・地域のうち日本は70位でG7中最下位だった。私はメディアスタディーズを学んだのですが、言語哲学者のノーム・チョムスキーの著書『マニュファクチャリング・コンセント マスメディアの政治経済学』などを読んで、いかに政治がジャーナリズムを牛耳っているかを知りました」 K「いわゆる古き良きジャーナリストは、“どこの政府にも汲みせず何が起きているかを暴く。このままではいけない”という態度でした。リーを始めとする4人組と共通するのかなと。しかしこういう活動に、賢い米軍はいち早く気がつくんです。どんなに戦場で成果を上げても、このジャーナリストに批判されるとダメなことがあると。次の湾岸戦争くらいから“メディアさんいらっしゃい”みたいな感じでプレスツアーを組んで連れて行っちゃう。イラク戦争ではさらに洗練されたプレス戦略を行った。ロシア軍も90年代前半の最初のチェチェン戦争では、世界中のジャーナリストが現地入りしていた。でも、残虐行為をどんどん暴かれちゃうので、99年の第二次チェチェン戦争では締め出していたようです。もともとメディアの力は、戦争においても大きな影響力があることは早くから世の中に知れ渡っていて、どう使うかまたは排除するかが焦点になっている。それもあって、作中の4人組は至る所でこいつらは何者だという目で見られるんでしょう」 S「実際、戦場ではプレスは攻撃から守られるんでしょうか。作品からは分からなくて。ガザで多くのジャーナリストが犠牲になっていますが、国際的なルールとかあるんでしょうか?」 K「国際条約はなく、戦争によると思います。どちらかというと、プレスだからというより、戦争に関する国際法上の非戦闘員保護みたいな扱いになるんじゃないかと。とはいえ、非戦闘員の犠牲って出ているじゃないですか。専門家ではないのですが、軍事上の合理性がある場合は巻き添えを出してもしょうがないという判例になっているらしくて、軍事的な合理性と比例原則と呼ぶらしい。国によっては、プレスに配慮していたら軍事作戦が成り立たないと判断するのでしょう。アメリカだと大問題になるから、そこまでのことはしないと言っていますが。ロシア軍もやるだろし、イスラエル軍に関しては国連職員でもプレスでも、まとめて吹っ飛ばしている現実がある」 S「報道を通して現在起っている戦争の映像を見ていると、プレス戦略的なことは当たり前になっているのかなと感じます。本当は一般人に見せられないようなことが起きていて、目の前で流れている映像は一部の見せられる情報だけなのではないかと疑ってしまう」 K「そう考えるべきでしょうね。作中で、政府直属のレポーターとカメラマンが出てきますが、彼らに比べると、リー達はアウトロー。そんなに崇高な存在ではなく野次馬でやっているだけなのかもしれないけど、少なくとも広報係じゃない」 L「そういった意味だと、SNSは政府や検閲などを介さずに個人が発信できる手段。今後のジャーナリズムを担うのは、個人なのかなと。とはいえ、TikTokやインスタグラムはプラットフォームがガザについての投稿を検閲して消していますが」 K「でも、SNSはどこかの国の巨大企業が所有するプラットフォームです。そこを締め付けるのは難しくない。SNSは職業記者じゃない人も発信できるいい面もあるけど、その分、情報の確実性は大幅に下がりますね」 S「世代的にSNSから情報を得ることが多いですが、発信者が職業記者なのか素人なのか判断できない時がある。職業記者の語り口を知らないし、個人の主観や憶測なのかも見分けにくい」 L「そう考えると、写真というメディアは日本語で真実を映し出すと書くけれど、果たしてどうなのだろう。リーとジェシーが目の前にある惨状を淡々と写していく姿は衝撃的です。映画の中でも、彼らが撮影した写真が途中で差し込まれますよね。動いてた画面が、どう切り取られたかがわかる演出になっている。その時点で、情報が書き換えられていることがわかります。普段、見ている写真やイメージも、写真になった時点で現実とは違う情報だということを改めて認識しなくてはならないなと思いました」 K「報じる、誰かに伝える時点で、すべては伝えきれないのじゃないでしょうか。写真や文字にした時点で、ごっそり抜け落ちるものがある。その中の何を残すかは、権力だと思うんです。つまらない日本のマスコミ論の授業でも、マスコミは第4の権力と言われるわけじゃないですか。揶揄的に使われることもありますが。作中でリーやジェシーが構えるカメラも、何だか銃に見えてくる瞬間があって。目的地に車で乗り付けて降りてくるとき、いわゆる戦争映画だと銃を構えた兵士が登場しますが、カメラを構えた女性たちが出てくる。撮影自体は誰も殺さないけど、どこを撮るかという権力は行使しているんです」 L「確かに、アメリカの評論家スーザン・ソンタグが、著作『写真論』のなかでで写真を撮ることは暴力的な行為だと言っていて。カメラと銃を比較して論じているんです。被写体を自分の視点で切り取り、彼らを使いたいように使うというのには、客体と主体、被支配と支配という関係性が生まれる。そういった意図があったのかもしれないですね」 K「何か揉め事があると、スマートフォンのカメラを向けることが日常的にありますしね。もはや一種の敵対行為(笑)。昔だったら、一眼レフの何十万円のカメラを使いこなせる人ってほとんどいなかった。今はみんながカメラ付きのスマホを持ち歩いているとうのは、暴力手段の拡散としても考えられるのかもしれない」 S「対して、ジェシーはマニュアルのカメラだと露出とか調整するの大変すぎない?って見ながらずっと思っていたんですよ。フィルムの入れ替えも面倒だし。リーはデジカメでしたね」 L「ジェシーのフィルム代って、めちゃくちゃ高額になるんじゃないかと気になりました(笑)。でも、言葉では語られませんが、往年の写真家と同じくフィルムで情報を残すことに価値を見出していたのかもしれないです」