「小学校担任教諭への憧れが原点」 北野高・恩知忠司校長の生き方<上>
昨年、大阪市淀川区の大阪府立北野高校を取材に訪れた時のこと。同校の恩知忠司校長にあいさつをした際「春に着任しましたが、高校の現場は14年ぶりなんです」と話していた。聞けば、これまで学校や教育委員会のほか大学教授、なみはやドームでの勤務を経験してきたという。1873年創立、関西でも屈指の進学校として知られている同校の校長は、これまでどのような道を歩んできたのだろうか。 「畑違いでもおもしろい仕事に」 北野高・恩知校長の生き方<下>
幼稚園時代から勉強を熱心に教えてくれた父
1960年、大阪市生まれ。バス運転手の父親、優しい母親に育てられた。父親は小さい時から勉強を教えてくれた。自宅近くの銭湯の湯船で数の数え方を教わったことから始まり、後には計算を教わった。そして、家では「新聞を読んで漢字を勉強しなさい」「相撲の番付で漢字を覚えなさい」と言われた。 「新聞で漢字を覚える」とは、よくある話のように思える。しかし、実はこれは小学校にあがる前、幼稚園時代の話。父親には毎日のように鍛えられたため、小学校入学時には、すでにたいていの漢字が読め、ちょっとした計算もできる状態だったという。 父親は1932年、母親は1933年生まれ。自分たちが小学生の頃は、戦時中で思うような勉強ができず辛い思いをした。それを聞いて、勉強の大切さを早くから学んでいた。そのため少年時代に通った銭湯と大きな湯船は、自分にとっては「寺子屋」のような存在だった。
難しい問題を解くたびに黒板でクラスの仲間に説明
「学校の先生」という職業に興味を持ったのは小学校5年生の時、担任だった男性教諭の影響が大きかった。「先生は、怒ると怖かったんですが、頑張った時にはめっちゃほめてくれました。厳しいけれど筋が通ったところが好きでした」 年齢は自分より15歳くらい上で、兄のような存在でもあった。そして事あるごとに「恩知君、これやってみるか」と、いろんなチャレンジさせてくれた。 例えば、算数の授業で教諭が問題集から難しい問題を選び、その問題を解いてくるという宿題は、相当調べないと解くことができない難関だった。 しかし、それを必死になって考え解いていくたびに、教諭から「恩知君、黒板を使ってみんなにこの問題の解き方を説明してみろ」と言われ、チョークを手にクラス全員に教えるという機会を与えられた。これを何度か繰り返すうちに、教えることの「おもしろさ」も覚えていったという。