【ドキュメンタリー】58年 無罪の先に-袴田事件と再審法- 世紀を超えた冤罪事件が問いかけるもの#1
静岡県浜松市。ここに年老いた2人の姉弟が暮らしている。袴田ひで子(91)と巖(88)だ。巖は半世紀近く拘置所にいたことで心身に異常をきたす拘禁症を患っていて、釈放から10年あまり経った今なお意味不明な言動が続く。ひで子は弟に代わって無罪を勝ち取ると決め、現在は法律の壁を打ち破ろうと動き出している。(敬称略) 【画像】袴田さんが逮捕された当時の新聞報道
当初は否認も苛烈な取り調べの末に
1966年6月30日。 静岡市清水区にある味噌製造会社の専務宅が全焼し、焼け跡から一家4人の遺体が見つかった。 いずれの遺体にも複数の刺し傷があり、売り上げの一部も無くなっていたことから警察は強盗殺人・放火事件として捜査を開始。 当時の新聞には「捜査線上に浮かぶ従業員H」の文字が躍った。 事件から49日後。 警察が逮捕したのは味噌製造会社の従業員だった巖(当時30)だ。 ひで子は「一斉に家宅捜索に入った。私のところにも入った。刑事が3~4人来た。朝7時か8時頃。入ってきて書類を見せると“強盗殺人犯・袴田巖”って書いてある。それを見て『これ、何だいな?』と。『何のこと?』ってピンと来なかった」と当時のことを鮮明に覚えている。 取り調べの様子を録音したテープには、巖が「なぜ殺さなきゃならないんだ。専務をなぜ殺さなきゃならないんだよ。俺、本当に世話になって。俺、誠から専務には仕えていたよ」と訴え、「本当に俺の一生を無茶苦茶にしたのはあんたらだよ。一生忘れんぞ。よくもやったな、俺を。何とか真面目にやろうと思っているのに。あんた方こそ人殺しだよ」といら立つ様子が記録されている。 このように巖は当初、犯行を否認していた。 ところが、1日10時間を超える厳しい取り調べの末、自供してしまう。 逮捕から20日目のことだ。 捜査員が「どういう格好をしていった?」と尋ねると、巖は「寝ているパジャマをそのまま着て、ナイフはズボンへ差して行った。下へ降りて歩いたが、どうもピラピラするし、白っぽい物では人目に付くと。それで合羽に気が付いて、合羽を上から羽織っていった」と答えた。 だが、起訴後は一貫して否認。 ひで子は「巖がそんなことするわけない、と。事件から3日経って(巖が)家に帰ってきて、どんな人間でも4人も殺したのなら何か変わったことがあると思うの。それが全然ないし、普段と変わりないんだもん。だから、家の人たちは安心していた。そうしたら結果的にこういうことになっちゃった」と振り返る。