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【ヒロシマの空白】104歳 最も幸せだった「あの日」までの10年間 思い出すたび今も涙

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中国新聞デジタル

 1945年8月6日、米軍の爆撃機が人類史上初めて、都市に原爆を投下した。「約14万人」は、早い時期の広島原爆の犠牲者数とされるが推計値にすぎず、「±1万人の誤差がある」とも言われる。街全体が壊滅し、死者の把握もままならなかった。一人一人の犠牲者、焼け落ちた街並み、断ち切られた日常…。歴史に埋もれた「ヒロシマの空白」と、75年後の今、向き合いたい。 【写真特集】被爆75年の8・6  原爆がさく裂した直後、爆心地付近の地表は3千~4千度に達したとされる。鉄が溶けるよりも高い温度。たった一発で、おおよそ半径2キロが焼かれ、市内は文字通りの地獄絵図となった。夫を失った女性は、75年後の今も、愛する人の遺影とともに生きている。

■18歳で見合い結婚。夫は第一印象通りの「とにかく優しい人」

 「もしかしたら生きているのかな、と心のどこかで思ってきました。でも、もう無理でしょう…」。広島市安佐南区に住む瀬川美智子さんは、4歳上の夫舜一さんの顔写真をいつも財布に入れている。現在104歳。時折取り出し、見つめるたびに今でも涙がこぼれる。写真の中の夫は、いつまでも若々しいままだ。  瀬川さんは、幼い頃から父の仕事の関係で日本各地を転々とした。1923年の関東大震災で被災し、広島県内の親戚宅に身を寄せたことも。舜一さんと見合いし、34年に18歳で結婚。再び広島で暮らした。

 県会計課の職員だった舜一さんは、第一印象通りの「とにかく優しい人」。4人の子どもとよく遊び、風呂に入れてくれた。「私が『シュークリームが食べたい』とねだると買ってきてくれたの」。戦況が厳しくなってからも、愛情あふれる日常は続いた。  しかし45年8月6日朝、「行って参ります」と、現在の高須(西区)にあった自宅を出たきり戻らなかった。爆心地から約900メートル南にあった県庁舎は全焼。県職員計1140人以上が犠牲になったとみられている。舜一さんの弟が焼け跡を捜したが、舜一さんの姿を見つけることはできなかった。

 あの時期のことを思い出して語ろうとすると、どうしても言葉に詰まる。長女章子さん(84)が継いだ。「母は縁側に立ち、広島市街の方向をただただ、見つめていました。その時の背中を忘れることができません」  しばらく後になって、県から「ころころと堅い物が入った木箱」を受け取った。本当に遺骨なのかどうか、そうだとして夫の遺骨なのかも分からない。中を見ず墓に納めた。「埋まっているなら県庁跡のどこか」と信じ、舜一さんの名前が銘板に刻まれた県職員の慰霊碑に手を合わせてきた。  4人の子を自らの手で育て上げた瀬川さんは今、孫、ひ孫、やしゃご合わせて20人以上に恵まれ、穏やかに暮らしている。それでもなお「夫との最も幸せな10年間」を思う切なさは変わらない。やはり、涙がこぼれる。

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