俳優・小林涼子、経営者との両立を支える「美味しいをいつまでも」の思い #豊かな未来を創る人
農業との出合いで変わった価値観
── 子どものころから俳優業をされてきた中、どのような経緯で農業と出合ったのですか? はじまりは24歳のときです。当時、10代からずっと頑張り続けてきた俳優業で疲れてしまっていて。そんな私を見た家族のすすめで、新潟にある父の友人の棚田へお手伝いに行ったんです。 そこで初めて農業に触れて、最初は「楽しい」「このお米、美味しいな」くらいの気持ちでした。でも、農業をしていく中で私が日々食べているお米ができていく様子を見たり、近くの山に山菜を採りに行ったり、木になっているイチジクを採って食べたりして、実りがあることの豊かさを感じたんですね。その気付きで価値観が大きく変わり、どんどん農業が好きになっていきました。 ── 価値観が変わったというのは? それまで、都会には何でもある気がしていたけれど、実はそうではないのだと分かったんです。都会は、和食に中華料理にタイ料理に......何でも好きなものを選べて、少し歩けば全然違う飲食店もあるし、すごく豊かで恵まれていると思います。ただ、逆に言えば生産ができない土地でもあります。毎日食べるお米を自分で育てたり、山菜やきのこを採って食べたりできないから、スーパーマーケットに行かなければ食べるものがないじゃないですか。 都会には都会の豊かさがあるように、田舎には田舎の豊かさがあって、その2つでは価値観が全く違うのだと気が付きました。
── そこからどのようにして農業が起業に結びついたのですか? 家族の体調不良とコロナ禍の影響が、特に大きかったですね。もともとは家族と一緒に農繁期に手伝いに行っていたのですが、体調不良で行けなくなってしまって。加えて、コロナ禍に見舞われて、新潟に行くことすら難しくなりました。 私が通っている田んぼは、高齢化が進む限界集落で荒廃が進んでいる棚田なので、担い手がすごく少ないんですね。だから、手伝いに行かなくなったらお米が作れなくなって、今当たり前に食べているこのご飯を食べ続けることができなくなるのではという漠然とした不安を抱くようになって。美味しいものを食べ続けられることが当たり前じゃないんだと気づいて、自分も何かできることがないかと考えるようになりました。 さらに、以前のように農業ができなくなってしまった私の家族や高齢者、障がいのある人など、誰でもバリアフリーな農業ができたらという思いから「農福連携」にたどり着き、今の事業を始めました。 ── 会社という形以外にも、コミュニティを作るなどの選択肢もあったかと思いますが、なぜ会社にしたのでしょうか? 自分自身が農業を手伝う中で、仕組みよりも人の思いで成り立っているボランティアやコミュニティという形では、人が辞めてしまったらその後どうなるんだろうといつも考えていました。たとえ、体調不良やコロナ禍のようなのっぴきならない事情で手伝えなくなったとしても、季節は進み、田植えや稲刈りの時期が来て、自然は待ってくれない。どうしたらこの美味しいお米を守っていけるんだろうかと考えるようになったんです。 それに、いくら私が農業をやりたいと思っていても、植えられる苗の数は限られています。あくまでもお手伝いをしてきた私が、本当にすべて1人でやり抜けるかわかりません。それで、仲間を作って持続可能な形で農業と向き合いたいと考え、AGRIKOを立ち上げました。 ── 会社の事業として、どのような経緯でアクアポニックス農業にたどり着いたのでしょうか。 新規就農をするなら生まれ育った世田谷でしたいと思っていたのですが、なかなか農地が見つからなくて。どうしようかと困っていたとき、海外の知人がアクアポニックスというものがあると教えてくれたんですね。 それで興味を持ったのですが、当時日本ではアクアポニックスを活用した農業をしている人が少なかったので、まずは自分でやってみようと思いました。自宅のベランダに手作りのアクアポニックスを作って、何か月か試してみたんです。 すると、それがすごく面白くて。アクアポニックスで何かできれば、と思うようになりました。そんな時、たまたまOGAWA COFFEE LABORATORY 桜新町さんとご縁があり、この屋上を貸していただけることになったんですね。屋上であればまさにアクアポニックスがぴったりだと、このファームを作ることにしました。