Yahoo!ニュース

IDでもっと便利に新規取得

ログイン

前衛としての陶芸とは何か。清水穣評「尼ヶ根古窯─瀬戸黒のはじまり─」展

配信

美術手帖

もうひとつの前衛陶芸 瀬戸黒の変遷  16世紀末から17世紀前半にかけて、元号で言えば天正から寛永にかけて、京を中心的な消費地として焼かれたいわゆる桃山陶芸を、黄瀬戸、瀬戸黒、楽、志野、織部と時代を追って並べると、明らかに瀬戸黒~楽で大きな変化が起こっており、それはたしかに中国陶磁からの離反、青磁・白磁の世界からの離脱である。黒が支配的な色として浮上し、形は自由に歪み始める。従来の規範的な美からの離反を前衛と呼ぶならば、瀬戸黒と楽こそは、最初の前衛陶芸であった。  本展は、初期の瀬戸黒を焼いた尼ヶ根古窯の発掘成果からその始原を探るもので、多治見市文化財保護センターを会場とした小さな企画展とはいえ、会期も長く、驚くほど専門家向け(オタク向け?)で、いろいろなことを考えさせてくれる好企画である。  展覧会の主旨は明確である。瀬戸黒と黒楽は、どちらも 引出黒 ( ひきだしぐろ ) の技法を用いており、器種もほぼ茶盌に限られるなど共通点が多い。実際、初期の瀬戸黒は、比較的高い高台で、茶盌の腰も丸みを帯び、長次郎の黒楽茶盌(例えば《尼寺》、東京国立博物館蔵)に似ている。しかし楽茶盌が半筒形の形態を維持したのとは対照的に、瀬戸黒は変転を続けた。徐々に高台が下がり、指が入らないほど極端に高台が低く、器壁が直線的に立ち上がる典型的な円筒形の形態(例えば《小原女》、三井記念美術館蔵)に達すると、次の段階では茶盌全体の造形が歪み始め、最後には織部黒へ至る。黒楽=利休の影響下に誕生した瀬戸黒は、やがて織部の影響を受けて変化していき、織部黒へと収束する。つまり利休の美から、織部流の「へうげた」美の前衛へ変化した、と。  これだけなら通説であって、それに従えば「楽から瀬戸黒へ」という順番であり、つまり瀬戸黒は、最初から利休の茶道のためにつくられ、のちに織部の茶道のためにつくられた最高級茶盌だった、ということになる。事実、「瀬戸黒は大窯が稼働していた[…]わずかな間しか生産されなかったため、生産数が少ない貴重なやきものです」(同展解説文)。ところが、瀬戸黒の最大の特徴を成す高台の出土品を展示したコーナーで、われわれは驚くべき事実を知る。瀬戸黒の高台のなかには、釉薬をかけていない露胎のものがあるのだが、そのタイプには「高台脇に瀬戸黒の口縁部分の釉薬が付いた跡がよく見られます。これは、量産するために重ねて焼かれていたためと考えられます」(同前)。生産数が少ない最高級品を量産した? 「貴重なやきもの」を重ね焼きする? 重ね焼きの茶盌を引き出す?  もともと美濃や瀬戸の古窯は、高嶺の花の中国陶磁を、なんとか国内技術でコピーし、広く供給するためのものである。龍泉窯青磁の色は終に出せなかったが、黄瀬戸はそのひとつの達成であり、そこには陶芸後進国が初めて中国・朝鮮と肩を並べうるグローバルスタンダードの器を実現したという矜持が漲っている。同様に、「黒」が求められたのは利休の美意識というよりも、建窯(けんよう)の黒い天目茶碗を写すためであっただろう。  鉄釉は素朴に焼き貫くとたいてい茶褐色に発色するので、当時の日本の技術では漆黒の黒をつくれなかった。窯焚き職人は、窯に製品と一緒に小さな陶片を入れておき、途中でそれを引き出して、焼成中の温度と釉薬の色を確認する。美濃の職人が、窯から引き出して急冷したその色味用陶片の一部に求める黒が発色していることを発見したとき、引出黒の技法が生まれた。  露胎の高台脇に付いた釉薬の跡が、重ね焼きに由来するならば、瀬戸黒は高級茶盌ではなかったということだ。つまり、黄瀬戸茶盌がそうであるように、最初は何かほかのもの(黄瀬戸の場合は向付や小鉢)であったが、のちに利休や織部の茶道に見出されて茶盌に見立てられ、その後は意図的にそういう茶盌としてつくられた、という仮説が成り立つ。高台の様々なタイプは、この見立ての前後の変化を反映しているわけである。  センターの隣町には「織部の里公園」があり、志野や織部を焼いた元屋敷窯や大窯の窯跡が保存されている。復元された大窯では、当時の窯詰めの様子が再現されていた。「貴重なやきもの」は焼成中に傷が入らないように匣鉢(美濃の言葉で「エンゴロ」)に入れ、匣鉢を重ねて焼き上げる。このエンゴロが、まさに瀬戸黒の形をしている。つまり私は、最初の瀬戸黒は、なんらかの意図から鉄釉を施し、引き出して真っ黒に発色させたエンゴロだったのではないかと空想しているのである。その黒いエンゴロに惹かれた利休が、茶盌の形で同じことをさせたものが、尼ケ根古窯出土の瀬戸黒茶盌であり、のちに長次郎にそれを反復させたために黒樂茶碗と似たものになった、と。 陶芸の前衛とは何か  ところで、現代の前衛陶芸と聞けば、人は例えば桑田卓郎や川端健太郎といった、現代美術界でも広く知られる作家を思い浮かべるだろう。しかし陶芸でのみ可能なもうひとつの「前衛」がある。それは、一般に「写し」と呼ばれる作風、すなわち、古陶磁に養われた目利きたちの美意識に応える伝統陶芸の主流派のなかの、似て非なる一群の作家たちのことである。それを陶芸の「原理主義者」と呼んでおこう。彼らはモダンアートの流れのオブジェ陶とは別に、現代陶芸の最先端の位置を占めている。さらにその制作は、近年日中韓で進展している考古学的・地質学的な窯跡調査の成果が、文献や伝世品に基づいて形成されてきた従来の古陶磁理解や歴史理解を刷新しつつある流れと、軌を一にしている。これは研究者が陶芸家と協力して、例えば汝窯の器を再現するのとも異なる。それは伝世品や出土品を当時の技法で「写す」ことに過ぎない。新しい造形はそこからは生じない。  原理主義者とは、その名の通り、外見ではなく原理を探求する一派である。桃山陶の原理とは、まず、どこにあるどのような土と釉薬で、どういう構造の窯で、どのように焼成したのかという制作の原理であり、さらには、どのような職人集団が社会のどの階級のためにつくり、その作品がどう流通し所有されたのかという社会的背景にも及ぶ。そして原理主義的な陶芸とは、探求されたその原理に従って、新しく(例えば)桃山陶を再現することである。要点は原理を作動させることであって、伝世のお手本を模倣することではない。「写し」と「原理主義」は似て非なるものである。目利きたちの美意識は古陶磁、すなわち桃山陶の場合400年経った器に基づいている。それを「写す」とは、いわば最初から400歳の器をつくることである。対して「原理主義」は、400年前の原理を再現することで、桃山陶を新しくつくるのだ。  それは数ある芸術のなかでも、陶芸でのみ可能な最先端であろう。地質学的に400年はなんら大きな変化をもたらす時間ではないから、当時の地層(原材料)は基本的にはいまでも存在しており、そして同じ構造の窯の中で生じる熱化学反応や物理反応は、自然法則として400年前と変わりようがない。制作過程の最重要部分が、人間ではなく大地と自然の原理に委ねられているがゆえに、陶芸家だけはタイムトラベラーになれるのだ。陶芸の原理主義、つまりもうひとつの前衛陶芸が、本展のような、最初の前衛陶芸=瀬戸黒の探求と共振するところに、陶芸のもっとも興味深い現在がある。 (『美術手帖』2020年6月号「REVIEWS」より)

文=清水穣

【関連記事】