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「阿武隈」は北へ。明かりが漏れぬよう舷窓をふさぐ。「いよいよか」。夜が明けた。「赤城」「加賀」「飛龍」…。そうそうたる艦が単冠湾に再集結していた〈証言 語り継ぐ戦争〉

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南日本新聞

 1941(昭和16)年11月中旬、私が主計兵として乗り組む日本海軍の軽巡洋艦「阿武隈」は大分県の佐伯湾を出港した。日本海に出ると、北へ北へと進む。行き先は知らされていなかった。  艦は関門海峡で、内部の明かりが漏れぬよう舷窓をふさいだ。陸地から行動を把握されないようにする工作を見て、「いよいよか」と覚悟した。  「日米開戦近し」の雰囲気はうすうす感じていた。この数カ月間、実戦さながらの激しい艦隊訓練が続いていたからだ。  目的地の湾にいかりを入れ、夜が明けてみると、湾内には、佐伯湾で別れた「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」「翔鶴」「瑞鶴」の6正規空母をはじめ、そうそうたる艦船が再集結していた。そこは千島列島の一つ、択捉(えとろふ)島の単冠(ひとかっぷ)湾だった。  空母機動部隊は11月26日、荒れる北の海を東に進み始めた。第一水雷戦隊(一水戦)旗艦として護衛駆逐艦8隻を率いる阿武隈は先頭を進んだ。海が穏やかな日、一水戦の大森仙太郎司令官は全乗組員を甲板に集めると、「これから米国と戦端を開く」と宣言した。

 12月8日早朝、100機を超える零式艦上戦闘機や九九式艦上爆撃機、九七式艦上攻撃機が、阿武隈の上空を飛び越え、ハワイに向かった。真珠湾攻撃の開始だった。  阿武隈は、敵の反撃に備えて戦闘配備に入った。戦闘配備時の主計兵の役割は、艦橋からの指示を各部署に伝える伝令役だ。艦橋から漏れてくる情報は、航空部隊による一方的な勝利を告げていた。次々に入る「撃沈」の吉報に艦内は沸き返った。覚悟していた米軍の反撃はなかった。  真珠湾攻撃は、航空機が主力兵器に躍り出て、戦艦など水上艦を脇役に追いやったことを証明する戦いとなった。もともと航空機搭乗員を志望して海軍に入っただけに、航空部隊の活躍に、「自分も一刻も早くあの一員に加わりたい」との思いが募った。  ところで、真珠湾攻撃の1年以上前、佐伯湾で阿武隈を下船していった海軍兵学校出の少壮士官がいる。私のことをとてもかわいがってくれ、最後に通路で顔を合わせた時、「甲板士官として、お前には本当に世話になったな。俺は今から潜水学校だ」と話してくれた。

 その士官は酒巻和男少尉といった。酒巻少尉は2人一組で乗り組む「特殊潜航艇甲標的」の乗員として真珠湾攻撃に参加したが、艇の故障などもあって湾内に突入できず座礁。生きたまま捕らえられ、米軍の「捕虜第1号」となった人だ。 ※2016年9月5日付掲載

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