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子どもが子どもを殺さない社会に 長崎・男児誘拐殺害17年

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長崎新聞

 2003年に長崎市で起きた男児誘拐殺害事件は1日、発生から17年を迎えた。被害男児=当時(4)=が通っていた幼稚園で送迎などを担当していた男性職員は、事件を機に、犯罪者の更生を手助けする保護司になった。罪に問われた少年少女に向き合い、社会復帰に寄り添っている。「子どもが子どもを殺さないでいい社会にしたい」と決意したからだった。  夕焼け空の下、子どもが一人、また一人と親に手を引かれ、笑顔で手を振る。「先生、またあした」。柿田正さん(55)は柔らかな笑顔で見守る。事件から17年。子どもと社会に向き合ってきた。  「一人一人の発達は違っていいという考えを社会全体で認めなければ。どの子も取り逃がさない教育が必要だ」。幼児教育者として、保護司としての経験に裏打ちされた考えだ。  保護司の活動を始めたのは8年前。尊敬する知人に勧められて最終的に決断したが、事件の被害者側関係者だったことが活動の原動力となった。  保護司として犯罪に手を染めた少年少女たちと各2週間に1回ほど面談する。一人の人間として向き合うことで、最初は心を閉ざす相手でも、次第に自分の思いや夢を話してくれるようになった。  「好きこのんで罪を犯す人はいない。犯すだけの理由がある」。活動を経て、こんな思いが強まった。犯罪に至る要因はさまざまあり「ボタンの掛け違いで偶然そうなっただけ」とみている。「事件は個人の問題ではなく、社会の在り方の問題」。その考えは、17年前の事件の加害少年に対しても変わらない。  加害少年=当時(12)=は補導後の精神鑑定で発達障害と診断された。事件当時、発達障害に対する理解は社会全体だけでなく教育現場でさえ乏しかった。社会を揺るがす事件だったため加害少年の親を責める言説が目立ったが、柿田さんは「親は親で一生懸命だっただろう」と推察している。現在では障害を個性と捉え、早い段階で子どもの特性に対応した取り組みが模索され、教育現場に確実に変化をもたらした。「もし今なら、あの事件は起きなかったかもしれない」  だが、まだまだ社会が変わる必要性を感じている。特に、多様性を認め合い互いに助け合える世の中を意味する「ソーシャル・インクルージョン(社会的包摂)」を目指す必要があると力説する。  例えば、日本の教育制度は個人の理解度にかかわらず横並びに進級する履修主義。「一人一人の発達や興味関心は違っていい」「一緒のレールに乗らないでいい」という考え方は浸透していないという。「障害のある人も含め、誰もが社会の一員となれる状態にしていく必要がある」  多様性を受け入れ、どんな人も適応できる。そんな社会を目指し、次代を担う子どもの教育に打ち込んできた。その原動力は、あまりに悲しかった事件。「もう二度とあんな悲しいことがあってはならない」。柿田さんは当時の園の様子を語った。 ◎加害者12歳に虚脱感 先生、保護者 打ちひしがれ  2003年7月2日朝。いつも元気でハキハキしていた被害男児=当時(4)=が通う幼稚園の経営を補佐しながら送迎バスの運転手をしていた柿田正さん(55)。いつものように向かった男児の家の前で、休みを保護者に告げられた。トボトボと家に入っていく様子に違和感を覚えた。  男児の欠席を除けばいつも通りだった。だが昼すぎ、帰りのバスを2便走らせて園に戻ってくると、3便目のバスを待つ子どもたちの前で先生が泣き崩れていた。突然の異様な光景に胸騒ぎを感じた。別の先生から事件について聞かされ、頭が真っ白になった。  園はすぐにさまざまな対応に迫られた。柿田さんは何とか正気を保ち3便目のバスを運転し終えると、園には大量の報道陣が詰め掛けていた。数日前まで被害男児がいたはずの「お遊戯室」は記者であふれた。  子どもたちにも事件を伝える必要があった。先生たちは「お友達が遠くへ旅立つことになった」と話し、誘拐の再発を防ぐために「本当に悲しいことだから、お父さんやお母さんから離れないようにしよう」と呼び掛けた。同級生の子どもたちは葬儀にも参列した。状況を理解している子どもは半分くらいだろうか、「バイバイ」と呼び掛ける姿も目にした。柿田さんは葬儀自体がトラウマ(心的外傷)になるほど悲しかったと明かす。  大人のケアも必要だった。先生たちはどうにか自分を保っている状態。子どもの前では気丈だったが、裏では打ちひしがれていた。保護者たちも、普段から笑顔で接していた子どもと保護者が事件に巻き込まれた悲しみから、不安に駆られていた。「何を話せばいいか分からないが、誰かに何か話したい感じ」だったという。先生や保護者にカウンセリングの機会を提供することなどに追われた。「元のニコニコな園を取り戻すのには時間がかかった」と振り返る。  加害者が中学1年の12歳と判明し、柿田さんは虚脱感に襲われた。自分が何をしたらいいのか分からなくなった。事件から数カ月後、休暇を取って北海道を旅し、現地で保育に関する研修会を受講。次第に気持ちが吹っ切れ、「こんな悲しいことが二度と起きないようにしなければ」という思いが高まったという。その思いは17年たった今も、柿田さんを支えている。  【略歴】かきた・ただし 1965年長崎市生まれ。米国カリフォルニア州立大卒。被害男児が通った幼稚園を運営する学校法人柿田学園の理事長で社会福祉法人滑石センター保育園の理事長兼園長。同市保育会会長。2019年同市議選で初当選し、現在1期目。

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