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産後うつで離婚。死線をさまよい、発見されたときは骨と皮ばかりに

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婦人公論.jp

3歳のとき弟を守れなかった矢沢俊子さん(仮名)は、父から責められ続けて育った。何度も死に直面した経験は、人生にとってどんな意味があったのか──(「私たちのノンフィクション」より/イラスト=丹下京子) * * * * * * * ◆私の手を振り払い、弟は線路へ走っていった 小学生のころ、私は姉と近くのお寺の日曜学校に通っていた。そこは浄土真宗で、和尚さまが親鸞さまのお話をしてくださったのを覚えている。わが家では祖母が熱心に信仰しており、京都や大阪で有名な宗教家の講演があると、足しげく通っていた。ときには、姉や私をともなって。だから仏の教えと死生観は、当たり前のように身近なものだった。そんな私には、これまでの人生で何度も「死」に直面した体験がある。 最初は3歳のころ。1歳下の弟・英彦と家の近くの線路脇で遊んでいたときのことだ。幼い私の記憶はあいまいだが、弟が線路に向かっていった場面は鮮明に覚えている。 きっと、母親にふだんから「線路に入ってはだめよ」ときつく言われていたからだろう。私は「そっちへ行ってはいけんのよ!」と何度も叫び、手を取って連れ戻そうとした。でも弟はその手を振り払い、線路へ走っていく。私はその場から動けず、立ち尽くすしかなかった。次の瞬間、ギギギーーッ! という急ブレーキの音と、弟の悲鳴が聞こえた。 その次に覚えているのは、悲しみに暮れる母の姿だ。包帯でぐるぐる巻きにされた弟の体を抱きながら、「英彦、英彦ーっ!」と仏壇の前で泣き叫んでいる。幼心にも、「大変なことが起きてしまった」ということはわかった。その日から母はふさぎ込み、一時は精神を病んで入院していたようだ。 父も、ずっと待ち望んで授かった長男を亡くしたショックから、なかなか立ち直れなかったという。私たちは三姉妹で、父はよく「英彦が生きとったら、わしはお前らより英彦のことを優先したじゃろう」と言っていた。野球好きの父は、息子とキャッチボールをするのを楽しみにしていたのだろう。だが、聞かされるほうはつらい。父が英彦の名前を出すたび、やるせない思いが湧いた。 後年、両親が亡くなった後に実家を片づけていたとき、私は弟の写真を見つけた。その裏には、「英彦、守ってやれなくてごめんなさい」と、震える父の字で書かれていた。父にとっても一生残る悔いだったのだ。 弟が亡くなったことは、子ども時代の私に影を落とした。たとえば、思春期にさしかかるころまで、たびたび列車に追いかけられる夢をみた。迫ってくる列車、一所懸命に走って逃げる私。あと少しで轢かれてしまう──というところで、いつも汗びっしょりで目覚めるのだ。 また、無意識のうちに女の子らしい格好を拒否していた。髪形はショートカットを好み、服装はいつもズボン。七五三などで着物でも着せられようものなら、たいそう怒って手がつけられなかったそうだ。男の子のような格好や振る舞いをして、子どもなりに父の無念さになんとか報いようとしていたのかもしれない。

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