紅白「旧ジャニ出場ゼロ」の舞台裏…かつては自ら「出場辞退」した“ビッグな”事務所OBも
紅白と旧ジャニの蜜月
22年までの紅白といえば、複数の旧ジャニ勢が出場して番組を大いに盛り上げ、視聴率の“上積み”に貢献していたことは疑いようのない事実だった。 「1960~70年代にかけてジャニーズ、フォーリーブス、郷ひろみ。80年代から90年代にかけては田原俊彦さん、近藤真彦さん 、少年隊、光GENJIらを送り込んではいましたが、せいぜい3組ほどでした。その後、97年からは2008年までは、レコード会社の枠が厳しくSMAPとTOKIOのみの出場にとどまっていました。しかし、09年に嵐が初出場を果たすと流れが変わります。CDデビュー組が続々と出場を果たし、ついに2015年には過去最多の7組もねじ込むことになり“ジャニーズ紅白”の様相を呈してしまいました。長年にわたり、そのしわ寄せを受けたのがほかの事務所のボーイズグループ。紅白のステージに立たないまま表舞台から消えたグループも少なからずあります」(音楽業界関係者) 蜜月ともいえる旧ジャニと紅白の歴史において、NHKに“反旗”を翻して自ら辞退したのが田原俊彦だった。 「田原さん はデビュー曲『哀愁でいと』がヒットした80年から、27枚目のシングル『あッ』を歌唱した86年まで、7年連続で紅白に出場していました。87年には俳優業に力を入れ、ドラマ『ラジオびんびん物語』(フジテレビ)の主演を務め、同ドラマの『どうする?』等3枚のシングルを発売していましたが、謎の落選となってしまったのです。87年の出場は近藤さんと前年に初出場を果たした少年隊の2組。田原さんは当時、『来年選ばれても出るかどうか分かりません。僕も男ですから』と悔しさをにじませていましたが……」(当時を知る音楽業界関係者) 翌88年、田原は熱血教師役を演じたフジテレビ系の学園ドラマ「教師びんびん物語」に主演。同ドラマは全13話の平均世帯視聴率が22.1%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録するヒット作に。さらに、自身が歌った主題歌で32枚目のシングル「抱きしめてTONIGHT」は自身の代表曲となった。 「その年の紅白に田原さんは選ばれ、おおみそかのステージに立つかと思われました。ところが、発表から1週間後、田原さんは出場を辞退。事務所やレコード会社が説得しましたが、田原さんは聞き入れず、それどころか紅白からの“卒業”を宣言してしまったのです。結局、代役として同じ事務所の男闘呼組が初出場を果たしました。これまで、体調不良や事故、不祥事を除き、自らの意志で選出後に出演を辞退したのは、70年の江利チエミさんと田原さんしかいません。田原さんは94年に事務所から独立しましたが、NHKの番組出演はあったものの、紅白出場はありません」(同前) この時の心境を、田原は著書『職業=田原俊彦』(KKロングセラーズ)の中で、こう明かしている。 〈マスコミは「前年落選の報復処置」だと報道した。しかし、それはちょっと違う。僕が辞退した理由はNHKへの報復ではなく、NHKのとった態度が僕の哲学に反していたからだ。一度は要らないと言っておきながら、手の平を返すように、また来いというのはどういうことなのかと思った。その答えは簡単である。僕は三六五日分の一日のために頑張ってきたのではなく、他の三六四日の方がよっぽど大事なのである。ただ、それだけのことだ〉(前掲書より) 田原は根強いファンに支えられ、歌手デビュー45周年を迎えた今も歌い続けている。自らの意思で紅白を辞退したことは、ファンも納得済みだっただろう。しかし、STARTO社の所属タレントたちは、自分の意思ではなく、会社とNHKの交渉が決裂して紅白のステージに立つことができなかった。そんな後輩たちに、田原がどんな思いを抱いているのかが気になるところだ。
デイリー新潮編集部
新潮社