玉袋筋太郎が思う“美しく枯れている良いオンナ”とは?「そういう人のほうが可愛いよ」
レバニラ食ってて感無量だった
――玉袋さんのように町中華ロケに頻繁に行っていても、“つい行きたくなっちゃう店がある”というのはすごく幸せですよね。 玉袋:本当だよ。それとさ、自分が小さい頃に通っていたお店の事を思い出せばいいんだよ。うちは商売をやっていたし、親父も呑兵衛だったんだけど、日曜になって家族でメシ食いに行くとなると「チャーハン食いたい」となって町中華に行くのよ。そこで俺も幼いながら、お店の人たちの家族構成とかも見てるわけ。 俺が中学に上がった頃、その店の子どもも中学生だったんだけど、グレちゃうんだよ。お父さん、お母さんは一生懸命やってるのにさ、悲しいよね。そんで中学を卒業するとどっかにいなくなっちゃう。高校も行かねぇでどっかで遊んでたんじゃないのかね。 25年後もまだその店はやってっから、行くわけよ。そしたら、厨房でその不良になっちゃった奴が鍋を振ってるのよ。声かけたりしないけど、そういうことがあったりするとさ、「最後はやっぱりここなんだ……」って考えちゃうよね。レバニラ食ってて感無量だったよ。 ――物語が繋がる感じがありますね。 玉袋:俺は勝手に物語を作るのが好きだし、美談が好きなんだけど、でもそういうのを自分の世界の中で楽しめるんだから。良いもんだよ。
寡黙な大将の「お父さんを超えたね」という言葉
――店の成長も楽しめる一方で、自身の成長や取り巻く環境の変化も感じられますよね。 玉袋:いつしか子どもができて、家族で店に通うわけじゃん。3歳くらいになったら連れていくのかな。んで、子どもは当然1人前なんか食べられないわけ。プラスチックの塗装が禿げちゃった皿と先割のスプーンなんかが出てきて、それ使って食べさせてさ。その子ども大きくなってくるわけだよ。1人前をようやく食べられたときに、店主が「食べられたね」なんて言うわけ。こっちはこっちで子どもの成長と店の歴史、自分の老い、育ててきた感動とかを味わってるわけよ。 俺自身も子どもを育てる上で、そんな経験をしたよ。好きなつけ麺屋に、せがれを小さい頃から連れてっていたんだけどさ。いつも俺は野菜つけそばの大盛りを食ってたんだけど、大盛りだから分けられるじゃん。でも子どもは成長していくよね。あいつが中学に上がったときに、連れてったらようやく一人前を食ってね。寡黙な大将で何十年と通ってる俺でも、合わせて10分も喋ってないよ。だけど、その大将が「ようやく一人前を食べられるようになったね」って声かけてくれたのよ。それは感動したよ。 中学になると色気付いて一緒には行かなくなったんだけど、18歳の頃にまた連れてって、あいつも派手な格好してるもんだから、大将は俺の子どもだとわかるわけないと思った。でもせがれが大盛りを食べて、俺が普通盛りを食べたときに大将が「お父さんを超えたね」だって。 ――良い話ですね。 玉袋:長年通っているとそういうことがあるわけ。俺の町中華ロマンっていうのはそういうのにあって、番組でも一期一会ながらそういう部分が画面から伝わって届いてくれれば良い。町中華ではみんなが主人公になれるし、目立ちたくないときは脇役になれば良いんだから。町中華の暖簾の中にはそんなドラマがあるんですよ。