台風で全住宅が被害も“死傷者ゼロ” 激甚化する豪雨災害、宮城・大郷町中粕川地区の住民の行動と教訓とは
田園風景が広がり、105世帯・311人が暮らしていた宮城県大郷町の中粕川地区。傍を流れる吉田川から引いた水は、農業を生業とする地区の生活に欠かせない。しかし去年10月に、住民の暮らしを襲ったのが、その吉田川の水だった。 【映像】50人以上の住民の証言を基に、当時の避難行動を映像化 日本列島を襲った“過去最強クラス”の東日本台風。総雨量は17地点で500mmを超え、13都県に大雨特別警報が発表された。142カ所で河川堤防が決壊した。およそ100mにわたり堤防が決壊。地区は一瞬にして激流にのみ込まれた。水深はおよそ3mに達し、全住宅が浸水した。
東日本台風による全国の死者・行方不明者は107人、宮城県は2番目に多い、21人にのぼった。ただ、これほどの甚大な被害にもかかわらず、中粕川地区での犠牲者は1人もいなかった。 住民たちは、どのようにして命を守ったのだろうか。東日本放送では、東北大学と共同で聞き取り調査を実施。いつ、どこに、誰と、どう避難したのか。50人以上の証言を基に、当時の避難行動を映像化、検証した。
■親から子、地域で…語り継がれてきた水害の記憶
堤防決壊の前日、10月12日の午前9時頃。雨はまだ弱く、川の水位はいつもと変わらない。午前10時、1人目の住民が娘の家、その後も1人が避難する。 午後2時10分。町は警戒レベル3に当たる「避難準備・高齢者等避難開始」を全域に発令、すべての住宅に設置した防災行政無線で「本日、夜間に向け、大雨・土砂災害発生の危険が高まっています」と呼びかけた。同時に、車で10分ほどの場所の高台にある幼稚園を避難所として開設した。
この頃から、住民たちは続々と町外の親戚の家や避難所に向かう。幼稚園に避難した農家の高橋順一さん(71)は、避難準備の情報が出たら避難すると決めていたという。 一緒に暮らす妻は、近所の人と先に避難。高橋さんも午後3時半頃、隣に住む親戚と一緒に、車で避難所へ移動した。「周辺から流れてくる水で、道路そのものが通れなくなる。雨があんまり降らないうちに避難所に行かないと危険な状況になるよということ。そういうことが自然と行えるというか、身についてきいというか」。 この地区で生まれ育った高橋さん。父からの教え、そして自らの経験が、水害への意識を高めていた。「親父が1歳の時に、ここが大洪水になった。わが家の、この辺まで来たっていうことでね」と、水が鴨居の近くの高さまで押し寄せたことを説明する。「覚悟を常に持ってないと駄目なんだよ、っていうのを、父、隣近所の年配の方から聞いていましたから」。