仕事を放りだした部下を捕まえろ!明智光秀が大事な戦いの裏で課されたミッションとは
明智光秀(あけちみつひで)が成し遂げた大仕事の1つ「丹波攻略」。しかし、およそ4年に渡る丹波攻めの間、光秀は丹波にばかり集中してはいられなかったのです。織田信長(おだのぶなが)の命で各地へ転戦したほか、密かにこんなミッションも…。当時の神道家・吉田兼見(よしだかねみ)の日記からのぞいてみましょう。 ■吉田家の小姓が逃げた! 天正7年(1579)2月22日朝、吉田兼見の頭を悩ませる出来事が起こります。いや、“頭を悩ませる”というよりは、“怒りを滲ませた”といった方が近いかもしれません。何しろ、その日の兼見の日記『兼見卿記』(かねみきょうき)には「成敗(せいばい)を加える」との文字が見えるのですから。一体、何が起ったのでしょうか? 兼見の日記によると、日頃、召し使っていた小姓(こしょう)「与次」が、前日に吉田家から「逐電」(ちくでん/逃げ去ること)してしまったとのこと。与次は吉田家と「譜代(ふだい)の契約」をしていたようですが、それが何故か逃亡してしまったのです。それだけに、兼見の怒りは深かったでしょう。与次の居所を掴み次第「成敗」を加えると兼見は日記に書き付けます。 しかし、兼見が書いているように、与次を成敗するには、先ずは彼の居所を探し出さねばなりません。怒りとともに、兼見は、どうやって与次を探し出すか、考えたはずです。しかし、あれこれと考えて数日を費やすということはなく、すぐその日に目的達成に向けて動き始めます。兼見が最初にやったことは、都にいた明智光秀に「饅頭五十」を持参することでした。その上で、与次を捜索して欲しいと頼むのです。なぜ、兼見は光秀に頼んだのか。前々から交流があったということもあるでしょうが、それが主因ではなく、与次が雄琴(おごと/滋賀県大津市)の者だったからです。 光秀は、元亀2年(1571)に近江国滋賀郡を領していました。与次の出身地が光秀の「領知内」ということで、兼見は光秀に捜索を依頼したのです。光秀は捜索依頼を受けます。が、数日後にすぐ捕縛というわけにはいきませんでした。与次が、光秀の家臣によって兼見のもとに連行されてきたのは、同年3月15日のこと。その間、兼見は(与次はいつ見つかるか、早く見つけて欲しい…!)と気を揉んだことでしょう。 ■連行された小姓の運命は…!? そして、やっと見つかった与次。(どのように処罰してくれよう…!)兼見はそう思ったはずです。ところが、与次を連れてきた光秀の家臣2人は「与次を許して欲しい」と言うではありませんか。もちろん、そこには光秀の意向もあったでしょう。兼見は悩んだはずです。(そう簡単に許すことはできない。でも、光秀殿やその家臣が言うことであるし…)と。 結果、兼見は与次を許します。「是非に及ばず」(仕方がないので)許したと兼見は日記に書いているので、渋々許したということです。天正7年と言えば、光秀による丹波攻めが大詰めを迎えていた頃です。そうした時に、兼見の小姓捜索に少しでも頭を使わなければいけないのは、光秀にとって喜ばしいことではなかったはずです。 兼見としても、それはある程度は理解していたはず。兼見が光秀方に最初、大量の饅頭を贈ったのも「ご多忙のなか恐縮です」との意味合いもあったのかもしれません。与次を連行してきた光秀の家臣らに兼見は夕食を提供していますが「本当にありがとうございます。お疲れ様でした」という感謝の気持ちがこもっていたはずです。さすが兼見、気遣いができる男です。 それとともに「与次を許してやっては」と主張した光秀も優しい武将と言えるのかもしれませんが、与次が光秀の領地内の者だったことも関連している可能性もあります。何はともあれ、一件落着!
濱田浩一郎