柴犬のルーツに出会う旅(2)系統図の頂点に立つ「強運の犬」
中村さんは「エンペーカー」という犬舎を持ち、多くの展覧会に自身の犬を出陳していた。『石』も、山出しされた直後に、東京と大阪で開かれた日本犬保存会の展覧会でそれぞれ入賞している。記録によれば、それから間もなく、佐藤武雄という東京で犬舎を運営する人物に譲られた。佐藤氏のもとでメスの『コロ』(四国の地犬の黒柴)と交配し、以降の柴の祖犬となったのは、1936年に山出しされてから2年後のことだ。 「コロはその当時山梨にいて、東京の展覧会に来た時にたまたま発情して、『では石号に』ということになったと、文献で読みました。『石』にもコロにも欠点はあったけれど、その子供が名犬の誉れ高い『アカ』でした」。アカは、現在の柴の特徴をよく備えた「不滅の種オス」と呼ばれる柴犬史上に輝く存在だ。たまたま中村鶴吉さんの目に留まり、食糧難の時代を生き延びたことと、コロとの偶然の出会いがなければ『石』は柴の祖犬とはなり得なかっただろう。
昭和30年代に高まった石見犬復活運動
戦後はアカの孫の『中(なか)』が、信州を舞台に名種犬として活躍。長野県ではその当時、既に地犬がほぼ絶滅していて、『中』と他地域から移入した優秀な犬をかけ合わせて柴の繁殖を盛んに行った。これらが固定された「信州柴」が、現在の柴の系統の主流になっている。「今の柴になっていったのは、あっという間のことでした。展覧会に出して、『あの犬いいなあ』となれば、全国から集中的に交配の依頼が来る。戦後は交通網が発達してどこへでも行けるようになりましたから。そうして地域性が失われ、(全国統一基準の)柴がネズミ算式に全国に広がっていったのだと思いますよ」と柳尾さんは言う。
一方、昭和30年代の石見では、一時期、石見犬(=石州犬)の復活を目指す動きがあった。柳尾さんが当時を思い出す。「益田地方で、有志が集まって石見犬を復興させようと研究したんです。高校の生物の先生とか、昔から犬を飼っていた人たちが集まって研究会を立ち上げた。展覧会で石見犬に近い犬がいれば残して、交配して子供を産ませて……ということをやったが、結局、先祖返りはできんかった。研究会も解散しました」。ただ、今もたまに“先祖返り”を感じさせる犬が出るという。今柳尾さん自身が飼っている『コウイチ』もその一頭だ。タヌキ顔に固い毛、引き締まった胴回りなど、確かに『石』の写真のイメージに重なる。