スポーツ万能少年が東大首席に 草野仁78歳が振り返る“伝説だらけの学生時代”「父から『部活を辞めろ』と言われて…」
最初に入ったのは“野球部”だった「新人戦でいきなり4番」
――そのまま中学校に進学されて、どの競技に打ち込まれたんですか? 草野 とにかく当時は大人も子どもも一番注目していたのが野球。その流れのまま、私も野球部に入部しました。ところが、打撃練習でホームランを連発していたからか、いきなり1年秋の新人戦でまさかの4番に据えられまして……。 ――中学1年生にしてホームランを連発して4番ですか。 草野 4番サードに据えられまして、こっちも「打ってやろう」と力んでボール球も全部打ちにいったら、11打数2安打という酷い成績を残してしまいました(笑)。 ただやっぱり自分は走るのが得意だから、陸上をやろうかなとふと思いまして。田舎の学校でしたので陸上部がなく、2年生の春に自分で創部して、自ら部長になったんです。 ――野球部から陸上部に。しかも陸上部は草野さん自らが創部したんですね。 草野 「陸上部ないけど作っていいですか」「ああ、いいじゃないか」っていうことで。私の専門は100mと走幅跳でした。言ってしまえば、後のカール・ルイスですね(笑)。地元では負けなしだったので、すっかり調子づいていました。 ただ3年生の県大会で100mをスタートで失敗、走幅跳は勝ってやろうと思っていたら、180cmを超える大男が出てきて全然勝てなかったんですよ。陸上への思いが続いたのは、この敗戦の経験があったからだと思います。
父から突然の“禁止令”「スポーツマンとして大成しない」
――そこから高校でも陸上を続けられて、1年生の時には早くもインターハイ決勝進出レベルのタイムをマークしたそうですね。 草野 高校では100mを中心に頑張りまして、11秒2までベストが伸びたんですね。当時は11秒を切れば全国大会でもかなりいい線を行くと言われていたので、もう一息というところでした。 でも、2年生に上がった直後に、突然父から「お前、そこ座れ」と呼び出されまして……。部活をやめろ、と。 ――突然ですね。 草野 父は貧しい家庭に生まれ、自力で人生を切り開いていった苦労人でした。そんな父から見ると、私は「結果が良い時は調子づくが、負けるとすぐ駄目になる」「スポーツマンとして大成しないタイプだ」と。 それから「仮に陸上を続けたとしても、スポーツマンとしての人生は実に短い。今のお前みたいにロクに勉強もしないと、何も残らないぞ」と言われまして、勝手に退部届を出されてしまいました。 ――厳しい言葉ですが、今で言う「セカンドキャリア」を見通していたのですね。 草野 今後の長い人生のためにも、しっかり腰を据えて勉強してほしい、という思いはわかります。でも、急に走るのを止めたら寂しいじゃないですか……。結局、すぐに真面目に机に向かうこともなく、ダラダラしてましたね。