Yahoo!ニュース

IDでもっと便利に新規取得

ログイン

九州飛行機工場へ学徒動員。博多駅に着くと雪だった。朝から晩までジュラルミンの板にやすりをかける。手はしもやけで真っ赤に。後に「震電」部品と知った〈証言 語り継ぐ戦争〉

配信

  • この記事についてツイート
  • この記事についてシェア
南日本新聞

 1941(昭和16)年4月、満開の桜並木に迎えられ、末吉高等女学校(現曽於高校)に入学した。実家のある南之郷・橋野集落からの新入生はわずかに2人。誇りと希望を胸に校門をくぐった。  一番好きな科目は英語だった。生まれて初めて触れる外国語の世界が楽しくて、アルファベットや英単語を一生懸命に覚えた。担当の女性教諭、泰山先生はあこがれの存在で、自分もいつか先生のように話せるようになりたいと思っていた。  ところが、その年の12月に米国との戦争が始まり、英語は敵性語として禁止された。「英語をしゃべれば、憲兵に捕まって牢屋(ろうや)に入れられる」と言われ、授業も中止。泰山先生は音楽担当になった。  戦争末期に勤労学徒動員が始まると、約80人いた同級生の中から選抜されて鹿屋の海軍基地で通信員として働いた。実家から離れるのはつらかったが、断る自由はない。「お国のため」に軍で働くことは名誉であり、集落民から出征兵士のような見送りを受けて家を出た。

 鹿屋基地で働いた期間はよく覚えていない。いったん学校に戻ったが、卒業を間近に控えた45年1月、全員が講堂に呼び集められた。福岡市にある九州飛行機第16工場への動員が決まったという。列車に乗って博多駅に着くと、鹿児島ではほとんど見たことがない雪が降っていた。  毎日毎日、朝から晩までジュラルミンの板にやすりをかけた。それが米軍爆撃機B29の迎撃用に開発されていた局地戦闘機・震電(J7W1)の部品だったと知ったのは、戦後になってから。試験飛行を終えた直後に終戦になり、実戦で使われることはなかったらしい。  南国育ちの身には何より寒さがこたえた。工場にも寮にもまったく火の気はなく、両手はしもやけで真っ赤に腫れ上がった。薬も包帯もなかったため、タオルでぐるぐる巻きにしただけで痛みに耐えながら黙々とやすりをかけ続けた。  鹿児島に戻ったのは、卒業後の5月か6月ごろだったと思う。帰郷してすぐ地元の農協で事務員として働き始めた。物資不足で靴もなく、実家から約1時間の道のりをげたを履いて通勤していた。

【関連記事】