「昔に比べたら、私らは温室育ちですよ」ーーAマッソ・加納愛子、芸人としての生き方 #昭和98年
東京は「敵だらけ」と思ってました
松竹芸能の養成所を経てAマッソとして2010年にコンビデビューし、大阪から上京。現在のワタナベエンターテインメントに移籍するまでは、フリーランスとして活動していた時期もある。キツめの大阪弁でやりあうスタイルだが、“関西芸人”という意識はない。 「大阪で芸人をしている時期は短くて、(構成)作家さんに『行ったら?』って言われたんで上京して来た、くらいの感じでした。別に『東京で一旗あげるぞ』みたいな気持ちもなかった。でも、はじめは誰も知り合いがいないし、同期もいなくて。もう東京は『敵だらけ』と思ってました。舐められてはいけないというか、ずっと力が入ってて。実際はすべってばっかりだったんですけど(笑)」 硬派で尖った印象、それこそがAマッソらしさだが、当時は「生意気だ」と先輩芸人たちから指摘されることもあった。 「若手の時は、まあ、自分でもわかるくらい可愛げがなかったんで。今、年齢も上になってきて思い返すと、やっぱり自分みたいにふてぶてしい後輩をわざわざ飯に誘ったりはしないので、やっぱり挨拶はしといた方がいいんだろうなって(笑)。いや、今後輩に対しては思うことないですけどね。私たちは後輩より100倍感じ悪かったよなあ、って思います」 20代は無我夢中だった。バイトをしながらネタを書き、劇場でライブをする毎日。「もがいた10年だった」と振り返る。
もう、頭のネジを外すしかなかった
芸人として売れる保証は、どこにもなかった。それでも続けるモチベーションは、どこにあったのだろう。 「もう、頭のネジを外すしかなかった(笑)。みんなそんなヤツらで群れてるので、何か麻痺して来るんですよ。社会に出たらみんな脆弱なんですけど、みんなでやばいことに気づかずに、30歳前に焦り出す……みたいな。でも、夢見てるし、やっぱり楽しいのでね、辞めにくいんですよ。バイトは、早く辞めたかったですけど。もう、転々としてました。居酒屋も、工場もやったし」 肩の力が抜けてきたのは、自分たちのカタチを少しずつ掴みはじめてから。上京して、6、7年でファンがつきはじめると、ようやく安心感を得るようにもなった。 「でもまあ、とにかく自分たちが遠回りした、というだけなんですよ。今はデビューして2、3年目の後輩たちが、自分たちをどう見ているんだろうというのは、すごく意識しますね。私たちのYouTubeに出てもらったり、ライブをキャスティングしたりもしているので。後輩には、ケチらないことを心がけて(笑)。タダで出演して、みたいなのはあんまりないかな。陰で何言われるかわからないので、きっちりギャラは、渡す。でも説教みたいなことは、しないです」