Yahoo!ニュース

IDでもっと便利に新規取得

ログイン

ある女性の不満爆発がやがて大きなムーブメントへ 米国女性参政権100年

配信

  • この記事についてツイート
  • この記事についてシェア
ナショナル ジオグラフィック日本版

 参政権を求めて米国の女性たちが動き出したのは1848年。発端の一部は、裕福な名家の出身で、社交的な女性だったエリザベス・ケイディ・スタントンが、制約の多い暮らしに強いいら立ちを覚えたことにある。彼女は、夫の健康上の理由から、ニューヨーク州のセネカフォールズという小さな町にボストンから引っ越してきた。奴隷制廃止論者だった夫は、彼女と3人の息子を家に残して、制度廃止を訴えて州内を飛び回るようになった。スタントンは子どもたちを愛していたが、女性に課せられた数々の制約に腹立たしさを感じていた。「精神的に飢えていました」とスタントンは後に記している。 ギャラリー:女性参政権を認める憲法修正第19条の成立が確定した1920年8月18日に…  ある日、有名なクエーカー教徒の奴隷制廃止論者であるルクレシア・モットがスタントンの住む町を訪れた。スタントンはモットに会うチャンスを逃さなかった。二人は数年前に、ロンドンで行われた奴隷制反対の集会で顔を合わせていた。モットと数人の友人とともにお茶を飲みながら、スタントンは「積年の不満を吐露した」と書いている。「その勢いがあまりに激しく、怒りが強かったため、私自身も、その場にいた人たちも、現状を変えるためにどんなことでもやるしかない、と奮い立ちました」  スタントンがまずやらなければならなかったのは、米国史上初となる、女性の権利を訴える会議の開催だった。しかし、スタントンらには、準備期間が10日ほどしかなかった。活動家として豊富な経験をもつモットが、それ以上長くは滞在できなかったためだ。  スタントンらは会議で方針を表明し、承認を得るための宣言を起草した。これは、米国が英国から独立した際の「独立宣言」を手本にしたもので、女性を米国に、男性を英国に見立てて、女性の権利が極めて少ないことを訴え、男性は女性に対して専制的だと非難した。  たとえば、既婚女性は夫から独立した法的権利をもたず、財産の所有を否定され、自分で稼いだ金も自由にできなかったため、存在しないも同然だと訴えた。多くの大学が女性に門戸を閉ざし、職に就く機会もほとんどなかった。男性は「あらゆる手段を講じて女性の自信を砕き、自尊心を傷つけて男性に頼って生きるしかないように仕向けてきた」と宣言は述べた。  この宣言には、さまざまな分野で女性の平等を要求していくという決議が添えられていた。だが、スタントンは政治的な力をもたないことには単なる嘆願でしかないことを知っていた。女性に必要なのは参政権だった。そこで決議にこう加えることにした。「参政権という神聖な権利を自分たちの手で勝ち取ることは、この国の女性の責務である」  2日間にわたる会議には数百人が参加した。約100人が宣言に署名したが、決議に参政権の獲得が盛り込まれたことに抵抗を感じる者も多かった。モットは参政権まで要求すると、「運動に関わる者は非常識」だと思われるのではないかと懸念したが、最終的に決議は採択され、米国人女性による参政権運動が始まった。 ※ナショナル ジオグラフィック日本版8月号「米国女性参政権100年 心の声が届くまで」より抜粋。

文=レイチェル・ハーティガン(英語版編集部)

【関連記事】