山崎の戦いで死去したのは影武者!? 明智光秀生存伝説の謎を追う【麒麟がくる 満喫リポート】
リポート/西村覚良(岐阜県山県市在住の郷土史家) 大河ドラマ『麒麟がくる』前半の舞台・美濃(岐阜県)では、光秀にかかわる多くの伝承が残されている。そのため、岐阜県内だけで、恵那市、可児市、岐阜市の三市に「大河館」が設置されるなど盛り上がりをみせている。ここでは、岐阜市内から車で約30分、斎藤道三と戦い、敗れた名門・土岐氏最後の城・大桑城があった山県市を紹介したい。地元の郷土史家・西村覚良さんによるリポートをお届けする。
* * * 岐阜県山県市中洞の白山神社に隣接した高台に、本能寺の変で織田信長を攻め殺した明智光秀の墓が祀られている。地域の人たちは、美濃源氏土岐氏の家紋・桔梗に因んで「桔梗塚」と称して、毎年4月と12月に供養祭を勤めている。 この桔梗塚は、山県市役所の東を通る国道256号線を北東に約4km程進み、長良川の支流武儀川を渡った山間のところに位置している。武儀川沿いの村々は、古代から紙漉きを行なっていたといわれ、とりわけ中世においては日本屈指の和紙生産地となっていた。 ここで漉かれる紙は、京都の公家や寺院にとって垂涎の的であったといわれる。市役所から真北を望むと約3kmの所に、後述する古城山(407.5m)が見える。
この地の桔梗塚に関わって、明智光秀が「本能寺の変」後も生き延びて関ヶ原の戦いに参陣しようとしたことを始め、この中洞で光秀が美濃国守護土岐氏の嫡孫として誕生したこと、可児市に所在する明智城主明智氏の元へ養子して明智光秀と名乗ったことなどが伝えられている。
明智光秀の誕生
1526年(大永6)8月15日光秀は、第8代美濃国守護土岐成頼の四男・基頼と中洞の豪族中洞源左衛門の娘お佐多(後に松枝)の子として、美濃国武儀郡中洞村(現:山県市中洞)古屋敷で生まれた。 光秀を身ごもった時母・お佐多は、「天下に将たる男子か、秀麗なる女子かを授けたまえ」と、武儀川の岩の上で水垢離をして願ったと云われている。この岩は「行徳岩」と名付けられ、今も清流の中にあって母の願いを留めているようである。なお、光秀が生まれた時に使われたという産湯の井戸は、中洞の古屋敷に隣接する白山神社鳥居の前に井桁の枠組みが往時を偲ばせてくれる。 光秀が生まれる前の1490年代から1520年代(明応・永正・大永)頃の美濃国は、守護代を始め尾張・越前・近江の国々を巻き込んで守護職の相続争いが絶えなかった。