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緊急事態下で跋扈する「自粛警察」。SNSの先行事例で考える"地雷"を踏んでしまう人許される人の違い、その背景にある社会の潮流とは?【橘玲の日々刻々】

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ダイヤモンド・ザイ

 新型肺炎による緊急事態宣言で政府・自治体が国民に自粛を求めたことで、「自粛警察」なるものが跋扈しているらしい。営業を続ける飲食店や遊興施設に休業を求める紙が貼られたり、無言や怒鳴り声の電話がかかってくる被害が相次いでいるという。帰省先での検査で陽性が確認されたにもかかわらず長距離バスで東京に戻った女性に対しては、氏名や顔写真、勤め先などの個人情報を特定する投稿が殺到した。  こうした炎上騒動の背後にあるのは「道徳」と「正義」だ。自分が正しさ(善)を体現していると思うからこそ、間違った行為や不道徳な者(悪)を叩くことに躊躇がなくなる。とはいえ、これはネットが引き起こしたというわけではない。テレビや週刊誌などのマスメディアは、視聴者や読者になり代わって「正義」の鉄槌を下すドラマをえんえんと続けてきた。なぜなら、それがもっともひとびとの注目を集めるから。  これがヒトの本性であることは、「不道徳な人間を罰すると脳内でドーパミンが放出される」という脳科学の実験からも明らかだ。道徳バッシングは快楽であり、最大のエンタテインメントなのだ。  徹底的に社会的な動物であるヒトははるか昔、おそらくは数百万年前から、一人ひとりが「道徳警察」になって仲間の抜け駆けを阻止することで群れを統制してきたのだろう。現代人の脳は旧石器時代からたいして変わっていないが、すべてのひとがSNSという「コミュニケーションの核兵器」を手にしたことで、道徳バッシングに歯止めがかからなくなったのだ。  これはもちろん、日本だけのことではない。欧米など英語圏ではFacebookやTwitterなどSNSの利用が日本より盛んで、英語人口は15億ともいわれる。そこでは「道徳警察」の圧力も日本の比ではないだろう。  そこで今回は、イギリスのジャーナリスト、ジョン・ロンソンの『ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち』(光文社新書)から、日本の先行事例である欧米のSNSで何が起きているのかを見てみたい。 ●ボブ・ディランの発言を捏造したことが発覚した人気作家の炎上  SNS時代の初期、ロンソンは「かつてなら弱く、無力だった人たちによって巨人が倒される」時代が到来したと期待し、タブロイド紙の同性愛者差別を糾弾したり、失業のため会費を払えなくなった夫婦の退会を拒んだフィットネスクラブを批判するなど、「正義」の先頭に立ってきた。  「人間の「恥」という感情はうまく利用すれば、大きな力になり得る」し、「従来にはあった階層というものがなくなり、社会が「フラット」になりつつある。そして、以前なら沈黙せざるを得なかった人たちが声を持つようになった。「正義の民主化」とでも言うべきことが起きている」と信じていたのだ。  だが2012年にTwitterに自分のなりすましが登場したことから、「悪と闘うために、悪人を晒し者にするという手段」に疑問を感じるようになる。こうしてロンソンは、SNSで「公開羞恥刑」を体験したひとたちを取材することを思いつく。  本書に登場するのは、ボブ・ディランの発言を捏造したことが発覚した人気作家、南アフリカの出張前に「世界最大のツイッター炎上」を起こした若いキャリアウーマン、カンファレンスでの友人へのちょっとしたジョークを「告発」された男性エンジニア、「ナチス風制服の売春婦5人とのSM狂宴」と報じられた国際自動車連盟(FIA)会長、アーリントン墓地での不謹慎なジョーク写真を投稿した女性などだ。  ディランの引用を「捏造」したと批判されたのは、日本でも『プルーストの記憶、セザンヌの眼 脳科学を先取りした芸術家たち』(白揚社)や『一流のプロは「感情脳」で決断する』(アスペクト)が翻訳されているポピュラーサイエンス・ライターのジョナ・レーラーだ。コロンビア大学で神経科学を専攻したのちオックスフォード大学に留学し、デビュー作からベストセラーを連発したことで『ザ・ニューヨーカー』のスタッフライターに抜擢されたばかりだった。  だからこそこのスキャンダルは大きな注目を集めたのだが、それは「捏造」というよりも、自己啓発本の趣旨に合わせて前後の文脈を無視して引用したり、資料にない言葉を足していたというものだ。たとえば、「自分の書いた曲については何も言うべきことはないんだ。ただ書いた、それだけだ。そこには大げさな『メッセージ』なんてない。説明させないでくれないか」との引用のなかで、最後の「説明させないでくれないか」はディランのインタビュー集にはなかった。  レーラーの引用に不審な点があるのを見つけたのは37歳の無名のジャーナリストで、当初は疑問に思って問い合わせただけだった。それに対してレーラーが不適切な引用を認めようとせず、大物出版エージェントを通して圧力をかけようとしたことなどから話がこじれはじめた。レーラーが自ら公表することを拒んだことで、ジャーナリストは発行部数のさほど多くない雑誌に「スクープ記事」を書いた。  このスキャンダルによってレーラーの著書は回収になり、ニューヨーカーのスタッフライターも辞めざるを得なくなった。  メディアに対して沈黙を守っていたレーラーは、7カ月後の「謝罪講演」で再起を図る。そのカンファレンスはネットで中継され、会場のスクリーンにはユーザーのtweetがリアルタイムで表示される仕掛けになっていた。  最初は「自分の間違いを素直に認めている」と好意的だったSNSは、レーラーが「FBIの法医学研究所の科学者ですら無実のひとたちをテロリストに仕立て上げてしまう」という話を始めたとたんに豹変し、「自分の嘘を脳の特性にせいにして責任逃れする気か」「ナルシストが自分勝手な妄想をぶちまけているだけ」「自分は嘘つきの最低野郎だと話して2万ドルもらえるんなら俺もやりたいな」など大炎上となった。  レーラーから事前に講演原稿を見せられていたロンソンは、飛行機のなかでいちど読んで「よい原稿だった」とメールしたことを気に病んでいた。もっと有益なアドバイスができれば、SNSで罵詈雑言を浴びながら謝罪するような残酷な「公開羞恥刑」は避けられたのではないかと考えたのだ。  それと同時にロンソンは、レーラーのスキャンダルを暴いたジャーナリストも苦しんでいたことを知る。彼はたんに不正が許せなかっただけで、他人の人生やキャリアを破壊することが目的ではなかった。それがいまでは「捏造や盗用ばかりを専門に探している人間」のように見られ、「自分の知らないライターが勝手に罪の告白をして、許しを請うてくるようになってしまった」のだ。  この事件の皮肉は、告発によってたしかに「正義」は実現したかもしれないが、それで得をしたり幸福になったりした人間が誰一人いないことだった。 ●「11時間のフライトの間に世界一の有名人になった」大事件  「アフリカに向かう。エイズにならないことを願う。冗談です。言ってみただけ。なるわけない。私、白人だから! 」というtweetを覚えているひともいるだろう。ジャスティン・サッコは30歳の白人女性で、大手婚活サイトなどを運営するニューヨークの企業で広報部長をしていた。2013年12月、ヒースロー空港で乗り継いで南アフリカに向かう直前に、彼女は170人ほどのフォロワーに向けてこの投稿をした。  それから11時間後、ケープタウン国際空港に着陸した機内で携帯の電源を入れたとたん、親友のテキストメッセージが表示された。「今すぐ電話して。今、あなたはツイッターで全世界のトレンド第1位になっているのよ」これが、「11時間のフライトの間に世界一の有名人になった」というSNSの"大事件"だ。  サッコが飛行機のなかにいるあいだに勤務先には「人種差別ツイート」への批判が殺到し、会社が「あまりに非常識で、言語道断なコメントという他ありません」と返答したことで、SNSは空港に着いたとたんに解雇されるイベントを待ち望む「祭り」状態になった。  フライトトラッカーでサッコがいまどこを飛行中で、いつ空港に到着するかが割り出され、ケープタウン空港で待ち構えていた男性の撮った写真がTwitterに投稿された。それまでGoogleで1カ月に30回程度しか検索されていなかったサッコの名前は、事件が起きてからわずか10日で122万回も検索された。  その3週間後、ロンソンはニューヨークでサッコの話を聞くことができた。憔悴しきってレストランに現われた彼女は、「レイシストの白人キャリアウーマン」というSNSがつくりあげた人物像とはずいぶん異なるものだった。  問題の投稿について、サッコはこう語った。  「あれがアメリカ人としてまともなコメントでないことは私にもわかっています。本気であんなことを言うはずがないし、私が本気であんなことを信じていると思った人もまずいないはずです。もちろん、世の中にはヘイトスピーチというものがあり、特定の集団を極端に憎む人たちがいるのも知っています。本気でああいうツイートをする人も皆無ではないでしょう。でも、私はそういう種類の人間ではありません」  本人からこのように説明されれば、問題の投稿が「白人であることの特権意識」の自嘲的なコメントであることがわかる。サッコはたしかにきわどい投稿をしていたが(「昨夜は、自閉症児の子供とセックスする夢を見た」など)、他に人種差別的なツイートがあるわけではなく、冷静に考えれば「出来の悪いジョーク」だとわかるはずだ。  彼女の不幸は、投稿が炎上しはじめたときは機中で、ツイートを削除することも、真意を説明して謝罪することもできなかったことだ。逆にこの特異な状況が、SNSの参加者を熱狂させ、「集団的狂気」を引き起こすことになったのだろう。なかには冷静になるよう促す意見もあったが、ごくわずかな“良識”はすべて無視され、なんの影響力もなかった。ひとびとが求めていたのは、「バカなニューヨーカーの白人女」が人種差別の罪で正義の鉄槌を下され、空港に着いたとたんにすべてを失うドラマだった。  サッコへの攻撃を先導したのはネットメディアのジャーナリストで、ロンソンに対して「ジャスティン・サッコが破滅したのは当然のことだ」と述べた。「それは彼女が人種差別主義者だからであり、特に、彼女のような地位の高い人種差別主義者を叩くのは正義だ」というのだ。  しかしその一方で、このジャーナリストはサッコが公人でも著名人でもないこともわかっていて、「自分が眠って目を覚ますまでの間に、誰かが仕事を失っている、そんなことは起きてほしくありません。誰かの人生を破壊することを望んでいるわけでもないのです」として、メールの最後にこう書いた。「彼女はいずれ立ち直れると思います。今はまだ無理かもしれないですが。人の関心は長くは続かないものです。皆、今日は今日で新たな敵を見つけて攻撃するでしょう」  ロンソンが最後に会ったとき、サッコはまだ失業中だったが、ネットニュースによると、その後、ファンタジースポーツ大手で実績を積み、事件から4年3カ月後の2018年1月にもとの会社のグループ企業に幹部社員として復帰したという。 ●ユーザーの53%は検索結果の上位2つしか見ず89%は検索結果の2ページ以降を見ない  「世界最大のツイッター炎上」がリベラルによる私刑だとするならば、リンゼイ・ストーンは保守派/愛国者の私刑によって人生を壊された。  ストーンは高機能学習障害を抱えたひとたちを支援する非営利団体に参加し、障がい者のために熱心に活動していたが、それとは別の趣味があった。「禁煙」の表示の前でタバコを吸ったり、銅像の前で同じポーズをとったりする「ジョーク写真」をSNSにアップすることだ。  2012年10月、ストーンは学習困難を抱える成人をワシントンDC旅行に引率し、ナショナル・モール、スミソニアン博物館、アーリントン墓地などに案内した。  そのアーリントン墓地で「事件」は起こった。南北戦争からベトナム戦争まで、アメリカに尽くした多くの戦没者が埋葬された国立墓地で「静寂と敬意を」という看板を見たストーンは、その表示の前で中指を立てて叫んでいる格好をしたところを友人のジェイミーに撮ってもらい、ジェイミーはその写真にストーンをタグづけしてFacebookに投稿したのだ。  とはいえ、投稿のあともたいしたことは起きなかった。友人の1人が「あまり気分の良いジョークじゃないね」とコメントしたが、ストーンは「いやいやいや……これが私たちだから。悪い子だから。(中略)もちろん、軍で国のために働く人たち、働いてきた人たちに対する敬意はあります。それは別の話」と返信した。  投稿から1カ月後、ストーンとジェイミーはレストランで互いの誕生日を祝っていた(2人の誕生日は1週間しか離れていなかった)。自分の携帯が頻繁に震えるのに気づいてFacebookにアクセスすると、例の写真に大量のコメントがつけられていた。  「国のために犠牲になった人たちに敬意がないとは」「死ねこのブス」「地獄へ落ちろ」「このバカなフェミニストを刑務所へ送れ」……  サッコのときと同じく、このときも「この程度のジョーク投稿で、一人の人間の将来が台無しになるようなことがあってはならない」「誰にも将来があるのですから、あまり悪質な書き込みはやめましょう」と擁護するコメントがあったが、大量のヘイト投稿のなかではなんの効果もなかった。その日、ストーンのFacebookの「いいね! 」の数は1万2000に達した。  翌日は自宅にマスコミが取材に来て、テレビカメラを前に父親が応対に出た。所属する非営利団体には解雇を要求するメールが殺到し、ストーンが出向くと建物のなかに入ることすら許されず、上司は駐車場で事務所の鍵を返すように告げた。  「本当に一夜にして、知人も友人も全部いなくなりました」ストーンはうつと不眠症になり、それから1年、ほとんど家から出ない生活を続けることになる。  その後、介護の仕事にいくら求職してもどこからも返事がなかったが、幸いなことに、自閉症の子どもを介護する職を得ることができた。だがストーンは、Facebookの炎上のことを職場に知らせていなかった。  もちろん違法行為をしたわけではないから、採用面接でそのことを告げる必要はないのだが、それによってストーンは疑心暗鬼に陥ってしまう。  自閉症の男の子をもつ母親から「この仕事をするために生まれたような方ですね」とほめられたときも、「嬉しいですが、私は重い気持ちでその言葉を聞いていました。いつ追い出されるかわからないと怯えていますから」とストーンはいう。Googleで名前を検索すれば、例の「ジョーク写真」と大量のヘイトコメントがページを埋め尽くすのだ。  「あの一件で、私のものの見方は大きく変わりました。あれ以来、私は誰ともデートしていません。新しい人と知り合いたいと思えないんです。あのことを知っているんじゃないか、知ってしまうんじゃないかと心配になるからです」とストーンは語った。  だがこの深刻な問題は、ロンソンが「グーグルの検索結果を操作する男」と出会ったことで見事に解決した。ロンソンはこの業者から、PRとして無料のサービスを提供してもらえることになった。最初はサッコを考えたが、投稿数が多すぎて何十万ドルという費用がかかるといわれてあきらめ、ストーンを「実験台」として紹介したのだ。  Googleの調査によると、ユーザーの53%は検索結果の上位2つしか見ず、89%は検索結果の2ページ以降を見ない。「検索結果の1ページ目がどうなっているかで、その人に対する世間の人々の印象がほぼ決まってしまう」のだ。  そこで業者は、スペイン旅行やディズニーランドで楽しく過ごす方法、レディ・ガガの新しいアルバムについての記事をリンゼイ・ストーンの名前で大量にアップすると同時に、バレーボール選手のリンゼイ・ストーンや競泳選手のリンゼイ・ストーンなど、「別のリンゼイ・ストーン」の写真が画像検索の上位に並ぶようにした。その結果、かつてはどこまでも途切れなく表示された例の写真がまったく表示されないか、たとえ表示されても別の無害な写真に紛れて目立たなくなったのだ。  こうしてストーンは過去の記録から解放され、自らの人生を取り戻したのだ。 ●価値観の「リベラル化」によりむしろ世界は「保守化」している  ネット炎上を取材したロンソンにとって大きな謎は、スキャンダルが暴露されても私刑を逃れることができた少数のひとたちがいたことだ。「ナチス風制服の売春婦5人とのSM狂宴」と報じられた国際自動車連盟(FIA)会長のマックス・モズレーはその一人で、何事もなかったかのように復活を遂げたばかりか、「人気者」になったことで以前より状況はよくなったという。  ロンソンは最初、バッシングの標的になるかどうかは本人のキャラクターによるのではないかと考えた。そこでモズレーにインタビューしたのだが、本人もなぜ自分が無傷でスキャンダルを切り抜けられたかはわかっていなかった。モズレーの父親はイギリス・ファシスト連合の創設者で、社交界の有名人だった母親のダイアナはヒトラーときわめて親しかった。モズレーの両親の結婚式は1936年にヨーゼフ・ゲッペルスの家で行なわれ、ヒトラーが出席した。  そんな家に生まれたモズレーが、よりにもよってナチス風の制服を着た売春婦からむちで打たれている写真をタブロイド紙に掲載されたのだから、それだけでキャリアが終わってもなんの不思議もない。  この謎を解く鍵は思わぬところにあった。メイン州の保守的な町のエクササイズスタジオで売春ビジネスが行なわれており、その顧客名簿が流出した。顧客のなかには牧師や弁護士、元町長などの名士がいて、裁判では全員に一人数百ドルの罰金刑が科せられた。牧師は仕事と妻を同時に失ったが、不思議なことにそれ以外はほとんどなにも起きなかった。裁判で他の客と顔を合わせることもあったが、「奥さんにSUVを買わされた」「バハマへのクルーズとキッチンをプレゼントさせられた」という話は出たが、誰も公開羞恥刑のような目には遭っていなかった。  こうした事例からロンソンは、きわめてシンプルな結論に到達する。ひとびとが「許容できること」と「許容できないこと」は、時代の価値観によって変わる。「許容できないこと」の典型は、リベラルであれば「人種差別」で、保守派なら「国をおとしめること」だ。ジャスティン・サッコとリンゼイ・ストーンはこのタブーに触れたことで私刑のターゲットにされた。  だがいまの時代には(すくなくともアメリカでは)、お互いが合意して行なったことで、ほかの誰にも迷惑をかけていないのなら、それは「許容できること」なのだ。こちらの典型が売春で、客と売春婦が合意の下で、金銭を介してなにをしようと他人には関係ない。それは妻や夫など家族のプライベートな問題ではあっても、「公共の問題」ではないのだ。  国際自動車連盟会長のモズレーの場合も同じで、乱交パーティでの売春婦の軍服が「ドイツ風」ではあっても、ナチスとはなんの関係もないことが裁判で明らかになった。売春婦のメールも読み上げられたが、そこでは「裁判官役」や「証言者役」の段取りについて述べられていただけで、ナチスとの関係をうかがわせるようなものはどこにもなかった。  この裁判に勝ったモズレーは「プライバシーに関する訴訟では、イギリス史上最高の額」とされる6万ポンドの損害賠償金を勝ち取り、「濡れ衣を着せられたけれど、見事にそれを跳ね返した人間」との評判を手にした(写真を掲載したタブロイド紙はその3年後に廃刊となった)。「ユダヤ人差別」と無関係であるなら、「売春婦に金を払ってなにをしようが本人の自由」ということなのだろう。  これまで「現代社会は“リベラル化”の大きな潮流のなかにある」と繰り返し述べてきたが、そのリベラル化の本質は「私の利害に関係なければ、なにをしようがあなたの勝手」というものだ。この価値観がアメリカ社会(英語圏)に深く浸透したことで、売買春のスキャンダルはもはやSNSではたいした興味を引き起こさなくなった。  ところがこの「リベラル化」によって「許容できること」の範囲が広がるにつれて、ひとびとの関心はごくわずかの「許容できないこと」に集中するようになった。アクセスが増えれば評判や金銭的利益につながるというネットの特性が、その傾向をさらに加速させた。迂闊に「地雷」を踏んだ者を見つけたら、本人の人生がどうなろうと関係なく、ネット参加者全員で「公開羞恥刑」に処してしまえば、その方がずっと面白いし儲かるのだ。  このような社会では、誰もが一線を超えないように用心しながら生きていかざるを得ない。  「今は、協調性があり、体制に順応する人ばかり居心地の良い、極端に保守的な世界ができつつあるように思う」「私は普通ですよ」「おれが普通ですよ」と皆が終始言っている」と、本書の最後でロンソンは書く。「普通とそうでないものの間に境界線を引き、普通の外にいる人たちを除外して、世界を分断する――そんな時代になりつつあるのではないだろうか」  ネットにおける私刑(リンチ)の背景には価値観の「リベラル化」がある。そして「リベラルの正義の鉄槌」から逃れるために、奇妙なことに、世界は「保守化」しているのかもしれない。  橘 玲(たちばな あきら) 作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)、『もっと言ってはいけない』(新潮新書) など。最新刊は『上級国民/下級国民』(小学館新書)。 ●橘玲『世の中の仕組みと人生のデザイン 』を毎週木曜日に配信中! 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