世界に羽ばたく日本酒 「南部美人」五代目蔵元の挑戦
100歳で亡くなった祖父秀雄さんは、二戸市でしか飲まれていなかった南部美人を岩手県で飲まれるお酒に育て、父の浩さんは岩手でしか飲まれていなかった南部美人を日本中で飲まれるお酒に育て上げた。「じゃあ、自分がやることは何かと考えたときに、世界の南部美人にしようと決めたんです」。 90年代は国内でも地酒ブーム。すでに日本酒はアメリカにあったが、現地の日本人が飲むものだった。そこで日本料理のレストランに営業をかけた。快くメニューに載せてくれた店もあれば、新潟の有名な地酒があればそれでいいと断られた店もあった。 「アメリカ人相手にイベント仕掛けると、感激の声を上げるんですよ。これまでのと味が違うって。冷酒で飲んだの初めてで、ワインみたいだって」。日本人はボルドーでなければワインを飲まないわけではない。同じように、アメリカ人も日本酒を産地や銘柄で選んでいるわけではない。美味しければ、それで飲んでもらえる。 2000年代に入り、アメリカンスタイルの日本料理店がブームになる。バーがあり、クロークがあり、雰囲気はアメリカ式だが、料理は日本料理。そこに南部美人を卸した。しかし、思うように売れない。アメリカ人には「Nambu Bijin」が読めず、注文しづらかったのだ。ちょうど日本人が「Margaux」をすぐに読めないのと同じように。 福島県の蔵元「末廣酒造」の「鬼羅(キラ)」もメニューに載っていたが、南部美人と違うのは、銘柄の横に“Killer”(殺し屋)と書いてあったことだった。おまけに英語で「あなたを殺してしまうくらいに辛い」とあった。これなら面白そうだし、気軽に注文できる。 「それで南部美人にもニックネームを付けようと思ったんです。“Southern Beauty”です。ちょうどテキサスを舞台にしたそんな映画があったらしくてですね、それがよかった」。ちなみに秋田の地酒「天の戸」は“Heaven's Door”(天国の扉)で、こうした苦労の積み重ねで日本酒はアメリカに広がっていった。 久慈さんは「これからの仕事は、日本酒がまだ浸透していない国々に、日本酒の扉を開けていくことです」と話し、UAEのドバイ、ブラジル、イスラエルなどに販路を広げて行きたいと語る。 南部美人の原料米はほとんど岩手県産を使う。岩手県内の米の収穫が終わり、日本酒の仕込みが始まった。