井上拓真の兄弟世界王者奪取を支えた家族の絆…突き上げた両手を父が下げさせた理由
父は「手を上げて万歳なんかやっている試合じゃねえ」と激怒
拓真は、耐え忍んだ。彼のボクシング人生を示すかのように。 ジャッジの判定は聞くまでもなかった。3者が揃って「117-111」。スコアが読み上げられた瞬間、拓真は、両手を天に突き上げた。だが、厳しい顔をして近寄ってきた父は、その手を下げさせた。 「手を上げて万歳なんかやっている試合じゃねえ。まだ暫定。喜ぶ内容じゃない!」 ポイントでは圧勝した。だが、KO決着のチャンスを逃した。ボディをもっと攻めて良かったし、コンビネーションブローも出せたはず。もっとできる、もっとやれる……息子の真の実力を知っているからこそ、あえて釘をさしたのである。 「内容も、やりたかったこともできていない。上を目指すのなら万歳をしている場合じゃない。そこはリセットしなければ。スタミナも切れて、体重が乗るパンチがなく、単発になった。膝をもっと柔らかく使えれば、もっと連打もできたと思う。途中ボディが良かったが、もっと早めにやりたかったしね」 もちろん拓真も父の厳しさの理由はわかっている。 「その通り。理想のボクシングじゃなかった。正規王座を取ってから喜びたいですね」 その右目は腫れていた。 一方の敗者の控え室。 49戦目にして初黒星を喫したタイの25歳は潔く完敗を認めた。 「楽しく試合ができた。(途中採点が不利で)よりいい戦いをしようと努力したんだけどね。井上は逃げるのも大変うまい選手だった。ストレートが強くていいパンチだった」 リング上には号泣している母の姿があった。 2年前の息子の涙が忘れられないという。世界戦決定の記者会見の日のスパーリングで右拳を痛めた。病院の検査に付き添ったのは母だった。 拓真はたとえ片手でもやるつもりだった。 止めたのはドクターだったという。 「未来があるから。今は無理をせず手術してやり直したほうがいいという先生の判断だったんです。あのときの拓真の顔は覚えています」 右拳の治療で約1年のブランクを作った。 復帰後は、世界戦経験のある久高寛之、元日本王者の益田健太郎、そして、東洋王者のマーク・ジョン・ヤップとの世界挑戦者決定戦という試練のマッチメイクをコツコツと乗り越えてきた。その間、兄は、3階級制覇に成功して、海外のリングも経験、衝撃のKO劇を重ね、パウンドフォーパウンドに名を連ねるほど世界的知名度を高めて遠い存在になった。メディアもスポットライトを当てるのは、いつも兄。弟は、ずっと日陰を歩いてきた。だが、コンプレックスを抱くことも、早く追いつきたいとの焦りもなかったという。 「ずっと一緒にやってきたから尚の方が完成度が高いのはわかっている。僕は一歩、一歩しっかりと上がっていこうと思っていたし焦りは別になかった」 だから素直に兄弟世界王者になれたことが嬉しい。 「兄と共に世界のベルトを手にできたことが素直にうれしい。小さい頃から一緒に目指してきたところで同じ舞台に立てるんです」 ただライバル心はある。 「ライバル心は、一緒にやっているのでありますが、尚以上のインパクトを出すのは簡単じゃない。ひとつひとつ課題をクリアしていかないと。毎試合、やるたびに思う」