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優しい人柄はプロの世界でも。超一流捕手&高卒初のプロ野球選手会会長の炭谷銀仁朗の平安の3年間

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高校野球ドットコム

 現在、日本プロ野球選手会第9代会長を務めている巨人の炭谷 銀仁朗。2005年の高校生ドラフト1巡目で西武に指名されると、高卒新人捕手としては17年ぶりとなる開幕スタメンを勝ち取った。その後も2013年と2017年のWBCで侍ジャパンに選出されるなど、球界を代表する捕手として活躍。昨年からは巨人に移籍し、激しいレギュラー争いを繰り広げている。そして8月20日、通算200犠打を達成した。 【動画】「平安に入るのは宿命」龍谷大平安・原田監督が語る炭谷銀仁朗(巨人)の高校時代  夏の甲子園中止に伴い、全国各地で開催された独自大会の支援を行う目的で日本プロ野球選手会から日本高野連に1億円を寄付することが発表している。炭谷は選手会会長として、未来ある球児のためにできることを考え、行動に移している。球界のために奔走している炭谷について、平安(現龍谷大平安)時代の恩師である原田英彦監督に語ってもらった。

小さい時からグラウンド通い。銀仁朗が平安にいくのは必然だった。

 原田監督は炭谷の存在を、「3、4歳くらいから知っています」と笑顔で話す。それは父の英毅さんが平安で原田監督と同級生だったからだ。英毅さんは入学当初こそ野球部に入部したが、野球部のない中学校に通っていたこともあり、実力差を感じて1年生の間に退部。その後は応援部に移り、3年生の時には応援団長として野球部に声援を送っていた。  その後、1993年8月に原田監督が就任した際には同級生で「監督を応援する会」を結成し、英毅さんは会長を務めるようになる。こうした縁もあり、銀仁朗少年は毎週のように当時は亀岡にあった平安のグラウンドに脚を運んでいた。当時の炭谷の印象について原田監督はこう振り返る。  「いい子でしたよ。お父さんもお母さんもいい人間で、特にお父さんは人の世話をしてくれるようないいお父さんだったので、その夫婦の子だなと思いましたね」  こんなこともあった。原田監督が就任して初めて甲子園に出場した1997年のセンバツでは部員が21名しかおらず、アルプススタンドに野球部員がいない状態。それは寂しいということで原田監督の同級生の子どもにユニフォームを着させて、アルプスを彩った。そこには当時小学生の炭谷もいた。  小さい頃から平安に慣れ親しんできた炭谷が原田監督の下に来るのは必然だった。プロ入りを目指していた炭谷に原田監督はあえて他の選手よりも厳しく接したという。  「彼が『平安を名乗ってプロに行きたい』と言ったので、この子の夢を実現してやらなイカンという想いがありました。小さい時から見ていますし、彼がどんな性格をしているかも全て知っていました。凄く優しい子なんですよ。そしていい子なんですよ。プロで長く勝負しようと思ったら、そこが邪魔な部分なんですよね。競争に勝ってナンボですから。そういう力をつけてやらなイカンと思ったので、人より厳しくしました」  捕手として将来を期待されていた炭谷だが、一度は捕手失格の烙印を押されたことがある。それは2年生に上がる直前のこと。平安では恒例となっている3月の沖縄遠征で1学年上のエースだった服部大輔のワンバウンドになるスライダーを止められず、1勝もできずに終わってしまったのだ。  これを機にディフェンス力のある上級生を捕手に起用し、炭谷は三塁手にコンバートされた。しかし、これもいい経験になったのではないかと原田監督は話す。  「悔しかったと思いますよ。でもね、サードというポジションで4番を打たせて、ちょっと打撃の部分で楽になったところもあると思います。それと野手から見るという部分でいい勉強になったと思います」

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