ユニクロ柳井正「一緒に降格してくれ」 後継者・玉塚元一、退任の真相
立て直しの日々
当時、ユニクロは試練の時を迎えていた。1998年に原宿に出店して東京都心に進出する際に始まったのが「フリースブーム」だった。澤田の発案だが、これでユニクロは勢いに乗り、わずか2年で売上高は4倍に急拡大した。だが、その後に待っていたのがブームの終焉だった。 社長就任が決まった玉塚はロンドンを後にして日本に帰国した。週末にぶらりと訪れたのがユニクロ躍進のきっかけとなった原宿店だった。日曜日の午後3時ごろ。1週間の中でも買い物客の入りがピークになる時間帯だ。ところが、店に入ると不思議な錯覚を覚えた。 (あれ、開店前? そんなわけねぇよな……) 店内に人はほとんどおらず、音がしたかと思えば店のスタッフだった。きれいに並べられた服が、人の手が届かない高さにまで積み上げられている。その棚に手を伸ばす人はいない。視線を入り口の方に戻すと、ガラス張りの店の外を慌ただしく行き交う人が見える。その人の波が素通りしていく。店の扉が開くことはない。 ここから立て直しの日々が始まる。まずは愚直に現場を回り、店長やスタッフの声を聞くことから経営再建の緒に就いた。もちろん顧客の声が第一だ。ある時のこと。顧客を一室に招いてユニクロの不満をぶちまけてもらう。その様子を、玉塚を筆頭とするユニクロの役員陣がマジックミラー越しの隣室で聞き耳を立てる。そうやってユニクロが突きつけられた課題と向き合っていく。 ●場末のまんじゅう屋の教え こんな改革に着手した玉塚だが、当初は柳井が採用を反対したほど評価が低かった。「彼はおぼっちゃんだろ」。祖父が証券会社を開業し資産家だったこともその理由だったのかもしれないが、柳井にとっての第一印象も悪かった。 旭硝子(現AGC)から日本IBMに転じていた玉塚に、声をかけたのが兄貴分の澤田だった。「うちがITシステムを刷新しようとしているからプレゼンに来いよ」と言われて駆けつけたのだが、その時のプレゼンが稚拙だったことを今も玉塚は反省しているという。 「しっかり準備したつもりですが、なめていました。今思い出しても恥ずかしい。上っ面のプレゼンです」 これに激怒した澤田が「お前はこの先、どうしたいんだ」と問い詰めると、玉塚から「俺は将来、経営者になりたいんです」と返ってきた。 「だったらタマさぁ、うちに来いよ」 澤田によると、それなら柳井の下で働いてみるのが近道だという。こうして澤田に導かれるように、玉塚はユニクロに転じたのだがこの時、柳井から聞かされた話は今も忘れ得ない。柳井にも経営者になる目標を打ち明けたのだが、すると柳井からはこんな言葉が返ってきた。 「いいですか。MBAで習うようなことも大事かもしれない。でも、商売なんていうのはMBAで習う理論だけでできるようなもんじゃないんですよ」 そう言って柳井はこう続けた。 「例えば、これは場末だなっていう場所にまんじゅう屋を開くじゃないですか。ところが、待てど暮らせどお客は来ない。そうなると考えるわけです。やっぱりもっと値段を下げるべきなのかな、看板が小さくて気づいてもらえないのかな……、ってね」 「そこでチラシをまいたらポツポツとお客は来る。でも、誰も買ってくれない。そうしている間にも従業員には給料を払わなくちゃならない。お金はどんどん減っていく。そうするとねぇ……、『このままじゃ倒産する』と思って胃がキリキリと痛むんですよ。経営者というのは、それでも考え続けるんです」 「いいですか。そういう経験をしないと絶対に経営者になれません」