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あったかもしれない「ヤクルト・原辰徳」ノムさんが抱いた究極の再生プラン 反骨魂を揺さぶった超エリート原、晩年の悔し涙【竹下陽二コラム】

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中日スポーツ

◇生涯一野村番がつづる「ノムさんジャーニー」その6

 世の中は秋である。秋になると、思い出すワンシーンがある。1995年10月初旬、ヤクルト監督ノムさんはわが世の春をおうかしていた。その日も神宮球場のベンチで番記者相手にいつもの独演会を開いていた。上機嫌であった。  無理もないのである。レギュラーシーズン中、追い掛ける巨人・長嶋監督はしきりに「メークドラマ」を不気味に予言し、独走する悲観論者ノムさんも「そのうち、波乱があるで」と何かにおびえるように破綻を予告した。しかし、終わってみれば、2位広島に8ゲーム、3位の長嶋巨人に10ゲームをつけて、ぶっちぎりの優勝。私はノムさんをからかうように「(長嶋さんの言う)メークドラマもなかったですけど、(ノムさんの言う)波乱もなかったですねえ」と水を向けた。  すると、である。ノムさんの顔が見る見る悲しげになっていった。  「原かあ。原ねえ」  そうつぶやいて、すっかり高くなった秋空を切なげに見上げたのである。ノムさんの頭の片隅に、その年、無念の引退をする巨人・原辰徳のことがあったのだろう。「波乱」を「原」と聞き違えたらしいのだ。私は、ここで、いやいや、違います。私が言ったのは、「原」じゃなく、「波乱」です! と話の腰を折るような、やぼなことはしなかった。その瞬間、何より、原について語りたい心境なのだ、とピンときた。こういう時は、流れに任せるのが、ベストだ。特に、ノムさんの場合は。その方が話は格段に面白い展開になる。私は経験上、学んでいた。放置プレーの実施だ。ノムさんはどっぷりと自分の世界に浸っていた。  「お前たち、この前、原がホームランを打ったとき、泣いただろ? なぜ、泣いたか分かるか? 涙のワケを書いた記者いたか? あれは、悔し涙や。巨人の4番を務めた男が、みんなに辞めるように追い込まれ、邪魔者にされてな。うっくつしたものがあったんや。オレには原の気持ちが痛いほどわかるんや」  心なしか、ノムさんの声が震えていた。番記者たちもシーンと静まり返ってノムさんの言葉に耳を傾けた。  それより前の9月20日の東京ドームの中日戦で途中出場の原はレフトスタンドに76試合ぶり特大4号アーチを放ち、お立ち台で「たまに(試合に)出てもこれだけのお客さんが声援をくれて」と男泣きした。この頃の巨人は将来の4番候補の松井が3年目、中日から落合、ヤクルトから広沢克、ハウエルと大補強して、かげの薄くなった原は完全に窓際族に追いやられていた。  原と言えば、甲子園のアイドルであり、大学球界のスーパースターでドラフト1位で巨人に入団。チャンスに弱い4番と酷評されながら、なんだかんだで超エリート。片や、ノムさんはテスト生として南海に入団。底辺からのし上がってきた。境遇が真逆。しかし、南海をお家騒動の末、追われ、ロッテ、西武でボロボロになるまでユニホームを着たノムさんは、悲哀をにじませる晩年の原に自分の姿を重ね合わせたのだろう。「年寄りは引っ込め」と誰も口に出さないまでも、そんな空気を肌で感じた晩年だったに違いない。ノムさんが、全く、タイプの違う原に共感を示したのは、私が知る限り、あとにも先にもあれが最後だった。それだけに、印象の残るシーン。  ここまで書いて、私は今さらながらに、ひらめいたのである。ひょっとしたら、あの時、再生屋としての虫がうずいていたのかもしれない、と。いや、間違いない。なにげに、観測気球を番記者の前で上げることもよくあることだった。今さら、どんな選手たちを生き返らせてきたか、書き連ねるのはよそう。再生屋ノムさんの根底にあるのは、人情とロマンである。南海時代、江夏豊に抑え転向を勧めた時、「球界に革命起こそうや」と口説いたように、原も「巨人で邪魔者にされて、悔しかっただろう。ヤクルトで巨人を見返そうや」と口説きたかったのではないか。一瞬でも妄想したに違いない。  ただ、巨人での将来が約束された原はのちに監督となり、去る9月11日に川上哲治を抜き、球団史上最多の監督1067勝を挙げ、名将の仲間入りを果たした。ヤクルト・原は、あるはずのない話だったかもしれないが、もし、あったら、野村再生工場史上の最高傑作になっていたかもしれない。夢とロマンあふれるドラマも生まれたはずである。仮に、天国のノムさんにこのことを尋ねたらどう言うだろうか。「お前、アホか。巨人のエリートがわざわざ、ヤクルトに来るわけないやろ。そんなことも分からんのか?」と笑われそうな気もするが…。

中日スポーツ

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