「トランプ大統領」と「刑事コロンボ」に見るアメリカの「反知性」
『アメリカの反知性主義』
日本では2003年末に出版された『アメリカの反知性主義』(リチャード・ホーフスタッター著、田村哲夫訳、みすず書房)という本に興味をもったのは、僕が考えてきた「都市化の反力」という考え方に合うように気がしたからである。 この本は、アイゼンハワーの大統領就任とマッカーシズム(反共産主義運動=赤狩り)を政治的な反知性主義としてその中心にすえ、ピューリタニズムの反進化論から、19世紀のエマーソンやソローやホイットマンのいわゆる「超絶主義」や、20世紀のビート運動やヒッピーなどカウンターカルチャーまでを扱う、浩瀚(こうかん)なアメリカ知性史となっている。 トランプが大統領に就任してから、日本でこの本における「反知性」とトランプ現象とを結びつける動きが出てきたのだが、どうだろうか。宗教的神秘主義や超絶主義やカウンターカルチャーはむしろ反合理主義の知性として評価すべきもので(ホーフスタッターもそういう扱いをしている)「超知性」と呼んでもいい。この本は、トランプ陣営や世界的な右派傾向と必ずしも合致しない。 とはいえ、ヒラリー氏という女性、オバマ元大統領という黒人など、どちらかといえばこれまで弱者とされていた側の力が、アメリカ流の「知=力」偏重主義と重なって肥大し、社会の支配力となってきたのはたしかだろう。民主主義という理念の内的必然というべきか、情報社会とグローバリズムの必然というべきか。これに対して、知的に取り残された感覚をもつ白人層の怨念が「反知性の力」となってトランプ大統領の出現を後押ししたことは否めない。 アメリカには、ヨーロッパのロゴス中心主義に対して、行動(フロンティア)と精神(ピューリタニズム)を重視する社会精神的底流があるようだ。
アジアの反知性―農村主義
東アジアにも反知性主義があり、それはこのところ農村(反都市)主義的な思想と結びついていたように思える。 中国共産党の「下放(げほう)」政策やポルポトのプノンペン市民虐殺には、農村が都市を敵対視する思想が見える。また丸山眞男によれば、昭和日本のファシズムにもそれに近いものが感じられるという。 その理由として、近代的な工業化が欧米から始まり、東アジアの農業社会は急遽それに対応しなければならず、そこに大きな精神的ストレスが生まれたことがあげられよう。その破局現象が、日本では明治維新(西南戦争を含む)と太平洋戦争であり、中国では共産主義革命と文化大革命であった。 また刑事被告人となったにもかかわらず、今なお圧倒的な人気を誇る田中角栄という政治家にも、それに似た日本の「反知性」の力が表れているように思える。小学校しか出ていないにもかかわらず、総理に登りつめ、秀才官僚を使いこなしたという、ある種「超知性」の人気である。 古代ギリシャ以来の論理主義を受け継ぐ本流としてのヨーロッパ文化に対して、アメリカとアジアには「反知性」の力が、文化の一角を形成しているといえるかもしれない。