天才・ゲーデルの考えた「ゲーデル数」はなぜ必要か?そには「超数学」の視点が必要だった!【不完全性定理とはなにか】
理系の「3ワカラン」と呼ばれる「ゲーデルの不完全性定理」。「正しいからといって、それが証明可能であるとは限らない」とは、どういうことなのか? この度、リニューアル刊行されたロングセラー『不完全性定理とはなにか 完全版』のなかから「不完全性定理」、そして異なる視点からゲーデルと同じ証明にたどり着いた「チューリングの計算停止問題」のエッセンスを紹介します。この記事では、以前の記事で紹介した「ゲーデル数」から「超数学」について考えていき、あらためてゲーデルの証明について考察してみます。 【図版】「自己言及」という無限後退を退けた、天才・ゲーデルの発想「ゲーデル数」 *本記事は『不完全性定理とはなにか 完全版』(ブルーバックス)を再編集したものです。
「超数学」とはなにか
学生時代に私が抱いた素朴な疑問の一つは「なぜ、ゲーデル数が必要なのだろう」というものだった。 そもそも算術は「数」を扱うのである。だから、算術を含むシステム内でなにかを証明しようとしたら、論理学の記号、それから、数どうしの関係、すなわち式(論理記号を含んだ数式)を扱うしかない。 算術を含むシステム内で、算術を含むシステムについて語るためには、いったん全てを「数」に変換し、その数どうしの関係を吟味するしかない。命題も証明もぜーんぶゲーデル数に変換し、あらためて「ゲーデル数について語る」のである。 こういうのを「超数学」(メタマセマティックス、metamathematics)という。「超=メタ」は、ようするに「上から目線で数学について考える」ということだ。いったん高みに登り、その視点からあらためて数学について考えるのである。
超数学という「メタの構造」が必要になる理由
ここでこの「超数学」という言葉についてもう少し考えみよう。これは端的にいえば「数学について数学する」という意味だ。 数学者は公理に推論規則をあてはめて定理を証明するのが仕事だと書いた。それは卑近な例でいえば、数学内の「2つの三角形は合同だ」とか「(x+y)を100乗したときの(xの50乗×yの50乗)の係数は~だ」というようなこと。 でも、「算数ではあらゆることが証明できる」(←これは正しくない)とか、「数学には計算できないことも存在する」といったような、数学全体にかかわる「定理」を証明するには、どうすればいいのか。 数学の中で延々と証明を書き連ねても、あるいは、どんどん計算を続けていっても、数学そのものがもっている性質のようなものは証明できない。 さあ、困った。