現代社会の実相を暴く、アルフォンソ・キュアロン監督の”映画的”企て「ディスクレーマー 夏の沈黙」【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】
今回のアルフォンソ・キュアロン監督への取材は、2つの点で本連載「映画のことは監督に訊け」の特別編という位置付けとなる。1つは、東京国際映画祭の開催直前に急遽、プライベートの旅行も兼ねて日本での稼働が決定したこともあって、本連載の通常回に比べるとインタビューも撮影も短い時間しかもらえなかったこと。もう一つは、今回のキュアロンの新作「ディスクレーマー 夏の沈黙」が、長編映画ではなくApple TV+で配信中のテレビシリーズであること。本連載で配信プラットフォームの作品を取り上げるのはこれが初めてとなる。 【画像を見る】来日したアルフォンソ・キュアロン監督を直撃 もっとも、いまやどんな名監督や名優であっても、その「最新作」が映画スタジオの作品ではなく配信プラットフォームの作品であるのが当たり前の時代。奇しくも、本テキストがアップされるタイミングでは、「メジャースタジオで作られて映画館で世界配給される作品」をキャリアの最期まで撮り続ける現役監督の筆頭であると誰もが信じていたクリント・イーストウッドの新作が、日本を含めほとんどの国で「配信送り」となったことが大きな話題となっている。2020年代序盤のコロナ禍とダブルストライキを経て、もはや映画界にはどこにも「聖域」はないということを、改めて多くの人に知らしめた。 前々作『ゼロ・グラビティ』(13)と前作『ROMA/ローマ』(18)で世界中のアワードを席巻してきたキュアロンも、もちろんその例外ではない。「ディスクレーマー 夏の沈黙」に例外的な要素があるとしたら、それはキュアロンが効率を度外視して、テレビシリーズのフォーマットで「映画と同じ方法論」をとことん追求しているところだ。 いずれも現在の映画界を代表する撮影監督であるエマニュエル・ルベツキとブリュノ・デルボネルを起用し、前者がケイト・ブランシェット演じる主人公のジャーナリストが住む世界を、後者がケヴィン・クライン演じる主人公と対立する元高校教師が住む世界を撮影するという、極めて実験的な手法が取り入れられている「ディスクレーマー 夏の沈黙」。かつて『トゥモロー・ワールド』(06)で荒廃した「2027年の世界」を予見してみせたキュアロンは、本作で、決して交わることがない異なるナラティブが進行し、それがあらゆるところで取り返しのつかない結果をもたらしている「現代社会の実相」を描き出すことに成功している。 ■「私が望んでいるのは、テレビシリーズがもっと映画的になることです」(キュアロン) ――全7話で語られる「ディスクレーマー 夏の沈黙」にはエピソードタイトルがなく、すべてチャプター形式で7時間の映画のように作られた作品でした。あなたがすべてのエピソードの監督をしているのも、この作品を一本の長い映画と捉えていたからじゃないかと思ったのですが。 アルフォンソ・キュアロン(以下、キュアロン)「私はテレビシリーズの制作についてそこまで熟知していないので、最初から映画と同じ方法でやりたいとAppleに伝えました。それで問題ないということで、『ディスクレーマー 夏の沈黙』では映画と同じ方法論を採用しました。撮影中もなにか特別なことをしたわけではなく、リリースが週ごとに分けられることはわかっていましたが、それ以外はいつもとすべて同じでした。ただ、通常のテレビシリーズと比べると撮影期間は非常に長くかかりましたね。一般的にテレビシリーズでは複数の監督が各エピソードを担当することで映画よりも早く撮影が進みますが、この作品では私一人が監督することですべてを緻密に進めていきました。すべてのディテールが後から重要になってくるので、慎重に取り組む必要があったのです」 ――一方で、最終話、つまり最後のチャプターですべてがひっくり返るというストーリーの形式はテレビシリーズの形式を巧く使った作品だとも思ったのですが。 キュアロン「いや、最後のどんでん返しがテレビシリーズ的だという意見には賛成できません。なぜなら、それはサイレント映画の初期から存在しているもので、(アルフレッド・)ヒッチコックも最後に『彼が悪役だったのか!』となる作品を作ってきました。サスペンスやスリラーのジャンルでは、どんでん返しは自然なものです。私もその方法論に則っただけです」 ――では、あなたが考えるテレビシリーズにあって映画にはないもの、逆に、映画にあってテレビシリーズにないものがあるとしたら、それぞれなんでしょうか? キュアロン「テレビはショーランナー、つまりストーリーの作り手が中心となるメディアで、そのストーリーを伝えることに重点が置かれています。そのため、途中で目を逸らしたり、仕事のメールを打ちながらでも追えるように作られるのが一般的です。一方で、映画では五感すべてを使って観客が没入することが求められます。つまり、テレビとシネマの定義は異なりますが、ごく稀に交差することもあります。例えば1990年の時点でデヴィッド・リンチが『ツイン・ピークス』で成し遂げたことがそうです。『ツイン・ピークス』は、メールを打ちながら見られる作品ではなく、すべての感覚を使って画面とサウンドに集中する必要があります」 ――これまでの多くの作品同様、『ディスクレーマー 夏の沈黙』でもあなたはすべてのエピソードの脚本も手掛けています。脚本を書かない監督にとっては、このようにテレビシリーズの全体をコントロールするのは難しいのかもしれませんね。 キュアロン「いや、そんなことないと思いますよ。そもそも、多くの偉大な監督たちは自分で脚本を書いてません。マーティン・スコセッシは90年代の『グッドフェローズ』や『カジノ』以来、自分で脚本を書いてませんし、スティーヴン・スピルバーグにいたっては、これまでのほとんどの作品で脚本は書いてません」 ――でも、スコセッシやスピルバーグはテレビシリーズの監督はしないですよね? キュアロン「監督にはそれぞれのスタイルがあって、それはテレビシリーズにおいても同様だというのが自分の考えです。すべてのエピソードの監督をして作品全体をコントロールしたい監督もいれば、最初のエピソードだけ監督すればいいとする監督もいます。その際、自分で脚本を書いているかどうかと言うのは、そこまで重要ではないと思います。私が望んでいるのは、テレビシリーズがもっと映画的になることです。現在、テレビシリーズにはすばらしい脚本の作品がたくさんありますが、そこによりシネマティックな表現が加われば、さらにすばらしい表現フォーマットになっていくはずです」 ――それにしても、この10年、つまり2014年に『ゼロ・グラビティ』でオスカーの監督賞を受賞して以来、あなたが長編映画を『ROMA/ローマ』1作しか撮ってないということには改めて驚かされます。もっとも、オスカーを受賞したにもかかわらず、その後にテレビシリーズで仕事をするようになった監督はあなただけではありません。 キュアロン「言われてみればそうなのですが、私は自分の仕事をしてきただけです。『ゼロ・グラビティ』を撮った後、『ROMA/ローマ』を制作するために多くの労力をかけて、今回が初めてのテレビシリーズになったわけですが、次の作品は映画になる可能性が高いです。今回テレビシリーズをやってみてわかったのは、自分のやり方でテレビシリーズを制作するのはとても時間がかかるということです。なので、いまは少しの間、休息が必要ですね(笑)」 ■「テレビシリーズのアワードは種類においてもそれぞれの部門数においても足りてないように思います」(宇野) ――私はゴールデン・グローブ賞の国際投票者なのですが、映画のアワードと比べて、作品の質の高さや作品の数の多さを考えると明らかにテレビシリーズのアワードは種類においてもそれぞれの部門数においても足りてないように思います。 キュアロン「それは同意見です。監督や脚本だけでなく、映画のように撮影や音楽などの様々なカテゴリでちゃんと評価されるべきだと思います。エミー賞は改善されつつありますが、ゴールデングローブ賞もそのような幅を取り入れるべきだと思います。もはや、映画とテレビシリーズは質的にもクロスオーバーしているわけですから」 ――最近の作品で、あなたが特に気に入っているテレビシリーズは? キュアロン「特にすばらしかったのはスティーヴン・ザイリアンの『リプリー』、それとベン・スティラーの『セヴェランス』ですね」 ――「ディスクレーマー 夏の沈黙」のケイト・ブランシェットについて語る際に、個人的に避けて通れないのはトッド・フィールドの『TAR/ター』との対比です。もちろん2人の主人公はまったく違う、「ディスクレーマー 夏の沈黙」の主人公は我々にも身に覚えがあると感じる部分の多い、より身近な人物ではありますが、パワハラ的行為をスマートフォンのカメラで撮られて、それがネットに拡散されるという非常に近いシーンもあります。ケイト・ブランシェットは短い期間に連続してネットによってその評価が引き摺り下ろされる人物を演じたことになるわけですが、そのことについて彼女となにか意見を交わしましたか? キュアロン「いいえ、その点について言えば、私は『TAR/ター』を 『ディスクレーマー 夏の沈黙』の制作が終わるまで観ていませんでした。もし途中で観ていたら、そのすばらしさに圧倒されて、『こんなにすばらしいものを自分が作れるだろうか』と感じていたと思います。彼女の『TAR/ター』での演技は本当に驚くべきものでした。ケイトの本質には、人々の認識に挑戦することが含まれています。彼女は認識を揺さぶり、キャラクターの複雑さや多層性を表現するのが得意です。『この人は善人/悪人』といった単純な見方ができない、人間の複雑さを体現したキャラクターを深く探求することを本当に楽しんでいるんです。彼女のこれまでの作品との比較についてはあまり話し合いませんでしたが、脚本を渡した段階から彼女は非常に深く関与してくれました。脚本のリライトにも積極的に参加し、新しいドラフトができるたびに彼女と密に連携しました。このプロセスは非常に長いもので、何度も書き直しを行いながら新たな発見を続けました。 彼女はクリエイティブにおいて非常に貪欲で、決して休むことがありません。キャスティングから脚本、編集に至るまで、この作品のあらゆる側面に関わってくれました。本当に驚くべき創造力を持つパートナーであり、すばらしい力を発揮してくれる存在でした」 ■「ソーシャルメディアから作品のほんの一部分の情報を取り出すのではなく、作品全体から結論を導き出してほしい」(キュアロン) ――普段、自分はあまりネタバレについて神経質にならずに映画について記事を書くのですが、「ディスクレーマー 夏の沈黙」に関しては、ストーリーの構造や結末について話すのを少し躊躇してしまいます。インタビューでどこまで訊いていいものか(苦笑)。 キュアロン「それは記事が出るタイミング次第です。この取材をしているのはまだ最終エピソードが配信される前ですが、そのタイミングで記事が出るならば、内容については明かさずに会話を進めることが求められるでしょう。配信後であれば、私はできるだけ正直な会話を望みます。私はあらゆる検閲に反対ですから。一般論としても、映画作家はジャーナリストを信頼したほうがいいと思っています。私の経験上、多くのジャーナリストは誠実であることが多かったので。問題があるとしたら、近年増えてきた、いわゆるオンライン・ジャーナリストと呼ばれる人たちです。彼らの中には、ただフォロワーが増えて、記事がクリックされればいいと思っている人がいて、簡単な話題だけを求めます。私はそれを非倫理的だと感じます。というのも、彼らのやることは、他のジャーナリストも含めた多くの人の仕事に便乗しているだけだからです。最近は、誰もが先を争って、賢く見せようとしたり、他人より一歩先んじようとしたりしているように思えます。私は自分の作品を観てもらって、それぞれが自分の解釈を楽しんでほしいと思っています。ソーシャルメディアから作品のほんの一部分の情報を取り出すのではなく、作品全体から結論を導き出してほしいです」 ――せっかく正直な会話を望んでいただけたのに、もう取材時間は終わりのようです(苦笑)。最後に一つだけ。あと2年ほどで、『トゥモロー・ワールド』の時代設定だった2027年になります。もちろんあの作品には原作もあったわけですが、あの時、あなたは約20年後の未来の世界を映画にしました。『トゥモロー・ワールド』は未来予測の正確さを追求した作品ではなかったと思いますが、いま世界を見渡してみると、あの作品で描かれていた世界にかなり近づいていることに気付かされます。 キュアロン「そうですね。『トゥモロー・ワールド』のような状況が現実味を帯びてきていると言われるのはこれが初めてではありません。でも、実際には、あの当時からあそこで描かれていた世界は現実そのものでした。ただ、それがアメリカやヨーロッパの中心にある自分の国では起きてはいなかったので、人々は無視していただけです。そういう意味では、気候変動と似てますね。『30年後に水位が上がる』と言われても、多くの人はそれが自分の目の前に迫るまで気にしないんです」 取材・文/宇野維正
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