「結婚は諦めていた」映画監督河瀬直美の心に響いた「村のおっちゃんの言葉」とは
華やかに見える世界で、私の心は徐々に孤立していった
でも、国内の試写会では、試写を観た人が何も言わずに去っていくばかりで。「ああ、これはダメなんだ。20点」と意気消沈していたんです。でも、ロッテルダム国際映画祭で賞をいただき、その時の審査員の推薦なのか、カンヌ国際映画祭でも上演が決まった。 あれよあれよという間の怒濤の展開でした。とりあえず私は現地に渡りましたが、特にやることもないので、日中はずっと観光気分。『萌の朱雀』が上演される最終日も、午前中は隣町のピカソ美術館に行っていて、カンヌ市内に戻ったら、「今すぐ着替えろ!」と言われて、その時初めて賞を獲ったことがわかったんです。 賞を獲った瞬間に、人々の評価が変わりました。日本に帰ると、いろんな人から「会いたい」と言われ、仕事のオファーも次々に舞い込みました。最初は刺激的だったけれど、だんだん、私はそういう世界に対して疑いを持ち始めます。 だって、初めて出会った人と、もっと深く知り合いたいと思っても、大抵がその場限りだし、東京での暮らしは外食ばかりで、自分でご飯を作ることもできない。これじゃあ“生きてる”って言えないんじゃないか。表面的には華やかに見える世界で、私の心は徐々に孤立していったんです。 本当に自分のやりたいことは? 自分らしくあることとはどういうこと? 自分の本当の居場所はどこ? そんなことを考えるようになって、はたと気付きました。 自分のやりたいこと、自分が自分らしく居られる場所を掘り下げることで、私は世界とつながった。だとしたら、誰かに求められることじゃなく、自分がどうありたいかということが、何よりも大切なんじゃないかって。
真実に気づかせてくれたおっちゃんの言葉
自分が考える“本物”は東京にはない。そんな気がして、奈良に帰ることを決めました。子供も欲しかったけれど、その時は30歳をゆうに超えていたから、授からないかも、という焦りもありました。今より16年も前のことです。 当時はまだ「子供を産むなら30歳までに」みたいな考えが世の中の主流だったと思います。でも、食事や生活習慣などを整えることで、自分の中に昔のようなエネルギーが蓄えられたのか、34歳で自然妊娠することができました。その時生まれた息子は、自粛期間中に料理を覚え、春から夏にかけて何度か手料理を振る舞ってくれました(笑)。 話は少し前後しますが、『萌の朱雀』のあと、もうひとつの『萌の朱雀』である『杣人(そまうど)物語』というドキュメンタリーを撮ったんです。 その時、村のおっちゃんが、「なんぼ金あっても、その人が“もっと欲しい”“もっともっと欲しい”と言って満足してへんかったら、その人は心が貧しいね」って言ったんですよ。おっちゃんは、目の前にある餅がめっちゃおいしいから、それで十分幸福だと話していた。 最初の長編が大きな賞をいただいて、次に何を作るか焦っていた時期です。しかも、当時の私には、「私は映画が好きで、誰かと付き合っても、映画に夢中になってしまう。きっともう結婚はできないんだろうな」みたいな諦めもあった。そうしたら、おっちゃんがこんなことも言うんです。 「自然の中で生きているものには、みんな“時期”があるんだよ。桜の季節に柿が食いたいと思っても食えないんだから、桜の季節には、桜がきれいだと思っておけばいいんだよ」って。 私には、どんな権威ある先生たちの言葉よりも、そのおっちゃんたちの生きた言葉が、すごく心に響きました。