江戸時代の遊女にまつわる“間違ったイメージ”とは? 悲劇だけではなかった/『禁断の江戸史』より
時代劇などで登場する吉原などの遊女。たいてい貧しい家に生まれ泣く泣く遊女に、または、騙されて遊女に身を落とすなど、悲劇の女性として描かれることが多い。 また、遊女というだけでいわれもない差別を受け、年季が明けるまで厳しい生活を強いられていると思われがちだ。 しかし、それがすべてでないとしたら……。 高校教師歴27年、テレビなどにも多数出演している歴史研究家で多摩大学客員教授などを務める河合敦先生によると、「江戸時代のイメージは、明治政府や御用学者、マスコミによって、ねじ曲げられてきた」という。 そこで河合先生に、これまで常識とされてきた江戸時代のイメージをくつがえすような、知られざる事件や新しい史実を教えてもらった。 (この記事は、『禁断の江戸史~教科書に載らない江戸の事件簿~』より一部を抜粋し、再編集しています)
日本は遊女の数が多く、長崎には外国人専門の遊女屋があった
日本にはとにかく遊女の数が多く、江戸時代も幕府が公認した遊郭のほか、多くの町にも岡場所(私娼が集まった非公認の風俗街)があった。 各宿場町でも、いまの旅館にあたる旅籠(はたご)では飯炊女(めしたきおんな)という名称で、人数を限って女性を置き、彼女たちの売春行為を認めていた。 驚くのは、長崎には外国人専門の遊女屋があったことである。オランダ商館の医者として長崎の出島にやってきたC・P・ツュンベリーもお世話になっていたという。 彼は遊女との「付き合いを望むものは、毎日遊女の予約をとりに出島にくる男に、その旨を告げる」と書いており、毎日、長崎の出島まで遊女屋の店員が予約を取りにきていたことがわかる。
遊女に惚れて、正式な妻として母国へ連れ帰ったオランダ人もいた
河合先生は次のように解説する。 「オランダ人は原則出島から出ることができません。 ツュンベリーの記録によると、予約が入ると『この男は、禿(カブロ)と呼ばれる若い女中を伴った遊女を夕暮れ前に連れてくる。禿は、遊女がいいつける飲食物を毎日、町から調達し、また料理をあたため、茶などを沸かし、まわりをきれいにし、そして使い走りをする』とあります。 ちなみに、丸山遊郭の遊女に惚(ほ)れ、帰国のさい彼女を密(ひそ)かにオランダに連れていき、正式な妻にしたオランダ人もいたようです。 また、オランダ商館長(カピタン)のブロムホフは、惚れた遊女の糸萩になんとラクダのつがいをプレゼントしています。 ただ、もらった糸萩は飼うことができなくて、ラクダを持てあましたすえに、見世物の商売人に売ってしまいました。糸萩は早世しましたが、ブロムホフの子を産んでいます」(以下、すべて河合先生)