水道橋博士、1990年の大阪遠征を振り返る「うめだ花月では惨敗だった(笑)」
TOKYO FMで月曜から木曜の深夜1時に放送している“ラジオの中のBAR”「TOKYO SPEAKEASY」。11月10日(火)のお客様は、浅草キッド・水道橋博士さんと、放送作家・細田昌志さん。
細田さんが取材・執筆に10年を費やし、「水道橋博士のメルマ旬報」の連載で話題を呼んだ本格ノンフィクション「沢村忠に真空を飛ばせた男―昭和のプロモーター・野口修 評伝―」。今回の放送では、10月29日(木)に発売された同著にまつわるお話が次々と飛び出しました。 ここでは、2人の出会いから水道橋博士が“小説を読まない理由”などについて語りました。
◆うめだ花月では惨敗だった(水道橋)
水道橋:細田くんとの出会いは、TOKYO MXのバラエティ番組「ニッポン・ダンディ」(「バラいろダンディ」の前身番組)。 細田:博士のことはもちろん知っていましたが、そのときに(初めて)いろいろお話させていただきました。 水道橋:知っていたどころか、俺たち(浅草キッド)が90年代に吉本に呼ばれて大阪遠征しているときに、俺たちの漫才を見ていたという。 細田:1991年1月ぐらいの(心斎橋筋)2丁目劇場で。びっくりしましたよ。 水道橋:初期の浅草キッドを見ているとは。 細田:浅草キッドっていう名前は知っていましたが、大阪漫才の中で東京の人たちが出てきて。“テンポいいなぁ”と思いました。 水道橋:その頃、細田くんはピン芸人だったからね。 細田:「一応」というレベルの芸人をやっていましたからね。でも、大阪の舞台に東京の人が出てくると、ちょっと笑いが取れなかったりするのに(浅草キッドは)ちゃんと笑いを取っていたから、“すげーな”って思いました。 水道橋:2丁目劇場では笑いを取れたけど、うめだ花月では惨敗だった(笑)。ただ、当時は東京から呼ばれることは物すごく珍しかったからね。
◆“若い奴が何キャスターぶってんだよ!?”(水道橋)
水道橋:細田くんは「サムライTV」(CS放送のプロレス・格闘技専門チャンネル)の初代キャスターだもんね。それで(細田くんの存在は以前から)知っていて。初代キャスターってすごいよね。若い頃でしょう? 細田:25歳ですね。 水道橋:俺たちも「サムライTV」で(トーク番組を)やっていたので、当時は“若い奴が何キャスターぶってんだよ!?”って思っていた(笑)。 細田:きっと“嫌(な奴)だな”と思っているんだろうな~? とは思っていたんですよ(笑)。 水道橋:いやいや(笑)。 細田:でも、こっちの(得意な)領域でやっていればと。 水道橋:領域というか、いわゆる“格闘技”(と言われるジャンル)を全部やっていたじゃない? 相当な知識がないと、あれはできないからね。 細田:話せる人が、まだいなかったんですよ。 水道橋:今思えば、これだけの知識があったら抜擢されるんだなとは思うけど。“この人、どんだけ細かく知っているんだ”と思った。時系列や年度に細かいし、固有名詞にも詳しい。格闘技はもちろん、政治や芸能界、プロ野球にまでおよぶ知識量で、“本当に事細かく精通しているんだな”ということがわかった。 細田:ありがとうございます。どこかおかしいんでしょうね。 水道橋:それで、俺がやっているメールマガジン「水道橋博士のメルマ旬報」で何か書いてみる? という話になって。そのときは、まさかこんなノンフィクション大作を寄稿してもらうなんて思っていないじゃない? 細田:一番最初は芸能コラム的な、過去の80年代芸能史的な(内容をリクエストされていたんですけどね)。 細田:ちなみに博士は、小説はあまり読まないっておっしゃっているじゃないですか? 水道橋:若い頃は読んだけどね。自分が芸人になってからは、自分が虚構の世界というか、物語の世界にいるから。 細田:(ビート)たけし師匠の弟子になって、水道橋博士という芸名をもらって……って、それだけでもうファンタジーですからね。 水道橋:ファンタジーなんですよ。“俺、今ダンカンに殴られている!”“わぁ~物語だぁ!”ってね(笑)。 細田:現実が虚構を超えたわけだ。 水道橋:そう思ってからは、ノンフィクションしか読まなくなったの。 <イベント情報> 「沢村忠に真空を飛ばせた男 昭和のプロモーター・野口修評伝」刊行を記念したお2人の対談イベントが、11月27日(金)に新潮社にて開催されます。取材の舞台裏やこぼれ話、同著には載っていない写真の公開や年表の配布も。詳細は公式Webサイトからご確認ください。 (TOKYO FMで月曜から木曜の深夜1時に放送している“ラジオの中のBAR”「TOKYO SPEAKEASY」11月10日(火) 放送より)