《戦後79年》河村さん夫妻 惨状を体験 群馬・前橋空襲「伝えねば」 2人とも肉親を失う
市民ら535人が犠牲となった1945年8月5日の前橋空襲から間もなく79年を迎える。群馬県前橋市朝倉町の河村硲(はざま)さん(93)、直枝さん(91)夫妻はそれぞれ空襲を経験、硲さんは母親を、直枝さんは父親を亡くした。2人は当時のおぞましい光景と戦争の恐ろしさを語り、「今の人は戦争を知らない。あんな経験をしてほしくない」と語気を強める。
諏訪町(現城東町)に住んでいた硲さんは5日午後9時ごろ、サイレンが夜の静寂を破り、ラジオから「前橋方面、警戒を申す」と聞こえたと記憶している。
北の方角で爆発音がして身の危険を感じ、3歳下の弟を連れて無我夢中で市街地から離れた上細井町方面に走った。「急に昼間のように明るくなり、『ドカン』と大きな音がして、瞬く間に街が火の海になった」。震えが止まらなかったという。母親のいくさんとは自宅前で別れた。近隣の家を見回っている父親が戻るのを待つと言っていた。
空襲が収まると、硲さんは3日間、いくさんを探し歩いた。「似た人がいる」と聞いて駆け付けたが、裸の上半身だけになった見知らぬ若い女性の亡きがらだった。いくさんは、自宅近くにあった深さ80センチほどの堀で変わり果てた姿で見つかった。「体に燃え移った火を消そうと飛び込んだのか」。終戦翌日に見上げた米軍機の音が悲しく、悔しい記憶として耳に残る。
直枝さんは機銃掃射におびえながら市内の女学校に通っていた。「空襲警報の連続で、5日は『もう逃げなくても』という人が多くいた」。萱町(現三河町)の自宅近くにいると、照明弾が次々に弾けた。
桑畑の葉の下に人々がしゃがみこむのを脇目に、上毛電鉄の線路伝いに東片貝町にあった父、音治さんの社宅を目指した。結局、道中の田んぼで夜を明かし、翌朝戻ると桑畑は焦土と化し、自宅は全焼していた。「誰が犠牲になってもおかしくなかった。よく生き延びたな」
音治さんは養老院に残された高齢者を助けに戻り、行方不明に。施設は無事だったが、遺体は見つからなかった。