大阪城天守閣で企画展「燃える!大坂城史」 信長が秀吉に送った書状も
「大坂の地」を巡るかつての攻防戦に関する資料を展示する「燃える!大坂城史」が現在、大阪城天守閣(大阪市中央区大阪城1)3階の展示室で開催されている。(京橋経済新聞) 【写真】鉄二枚胴具足(伝 真田幸村所用) 時代の変わり目ごとに大規模な奪い合いが起こり、炎に包まれた大坂城。同展では、大坂の地を巡り戦場で熱く命を燃やした人物を紹介する。タイトルの「燃える」は、その2つの意味が込められていると館長の宮本裕次さんは話す。 見どころの一つが「石山合戦(かっせん)」に関する資料。大坂城が築かれる以前、本願寺を中心に寺内町が形成され繁栄していた大坂の地を巡り、織田信長と本願寺が約10年にわたって戦いを繰り広げた。同展では、本願寺と講和が成立した際、信長が秀吉に送った書状を展示する。信長から秀吉へ宛てた書状は少ないという。敗れた本願寺が退去する際に寺内町は炎上してしまうが、その3年後、秀吉が跡地に大坂城を築くことになる。「信長も秀吉も交易の要地である大坂を重要視していた」と宮本さん。 信長没後に大坂を手にした秀吉。その秀吉が亡くなり、次に大坂を手に入れようとしたのが徳川家康。大坂城を拠点に勢力を保つ豊臣家と対立し「大坂の陣」が勃発。大坂城は再び戦乱の舞台となった。この戦いで豊臣方として活躍したのが真田幸村(信繁)。同展では、幸村が所用したとされる甲冑(かっちゅう)や水筒のほか、大坂の陣最後の決戦の日に書かれた指令書を展示。指令書は、徳川方を迎え討つ豊臣方の大野治房(はるふさ)が、諸将に真田幸村・毛利勝永と十分に相談して戦うよう指示する内容で、緊迫した状況がうかがえる。 大坂の陣の後、大坂城は徳川幕府によって再築され、西国支配の拠点としての役割を果たした。幕末には将軍が何度も滞在し政治活動を行うが、新政府軍との戦い「戊辰(ぼしん)戦争」が起こり、最後の将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が大坂城を脱出した直後に火の手が上がり、燃え落ちた。展示では焼失する前の大坂城の姿を収めた写真も紹介。天守閣とも思わせる三棟の櫓(やぐら)が1枚に収まり「迫力がある」という。 何度も燃えては復活する大坂城について、宮本さんは「大坂城は東側が湿地帯、西側は海だったため、敵から攻められにくかったという『防衛の面』と、海や川といった水運を活用できる『経済の面』とを兼ね備えた絶好の場所だった。時の権力者たちの間では、その魅力故に、争奪戦が繰り広げられ、大坂城は滅びては復活するという歴史をたどった」と話す。 開館時間は9時~17時(入館は閉館30分前まで)。入館料は600円(中学生以下無料)。 10月9日まで。 会期中、館内エレベーターの更新工事を行っているため、エレベーターの利用制限がある。
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