樹木希林さん がん治療さえも楽しんだ「自分らしい生き方」
「仕事を続けながら治療を受けられたら便利だっていう患者さんはたくさんいると思うけど、日常生活から離れることがとても大事なんだ、と。そこから離れることで、自分がいままでどうやって生きてきたのかを客観的に見直せる。だから“鹿児島にクリニックがあることが大事で、東京でやってはダメですよ”とも何度か言われました。簡単に治ってしまったら、命に対して感謝することもない。大事な大事な命なんだと、しみじみ感じてほしいともおっしゃっていました」(植松さん) 交流は鹿児島だけにとどまらなかった。植松さんが上京する際に時間を合わせて同じ飛行機に乗ったり、ザ・タイガースのコンサートを一緒に見に行ったこともあるという。2013年12月、「44年ぶりの再結成」と銘打って1か月間だけ復活した、ザ・タイガースのオリジナルメンバーによる武道館コンサートだ。 「希林さんと内田裕也さん(享年79)が結婚するときの仲人が沢田研二さん(72才)だったから、ザ・タイガースのことは昔から好きだったみたい。コンサートが終わった後は、ザ・タイガースゆかりのイタリアンレストラン『キャンティ』で一緒にワインを飲みました」(植松さん) 樹木さんの治療中、植松さんは裕也さんとも会う予定があったという。 「まだ希林さんが全然元気だった頃に、裕也さんが一緒に鹿児島に来て、ぼくに挨拶すると言っていたようで。予定の日も決まっていました。ところがその日に台風が来てしまって。実際には飛行機は飛んだんですが、裕也さんが“台風で危険だからやめよう”って。結局、会えずじまいでした」(植松さん)
樹木さんは植松さんに、裕也さんについてこんなふうに話していたという。 「とんでもない人間なんだけど、なかに一筋ピュアなものがある。私はそれだけあれば充分なんです」 2017年1月、前年に見つかった骨への転移にピンポイント照射を受ける。これが樹木さんにとって最後の治療になった。 「このときは10日間ぐらい治療を受けてもらいました。まだ治療の途中だったのですが、希林さんのお仕事がとても忙しかったので、一度東京に帰ることになったんです。私はもうちょっと治療を続けたかったので“また来てくださいね”とお話ししたんですが、“しばらく仕事をしてきます”とおっしゃって。次に来てくださったのは1年2か月後でした」(植松さん) この間、樹木さんは『モリのいる場所』『万引き家族』『日日是好日』『エリカ38』、そして遺作となった『命みじかし、恋せよ乙女』と、時間を惜しむように精力的に映画出演をこなした。そして2018年3月にPET-CT検査を受けたときには、がんが全身の骨という骨や臓器にも広がり、植松さんが治療できる状態ではなくなっていた。少しでもがんに効けばと、植松さんはホルモン剤を樹木さんの自宅に送ったが、樹木さんから返ってきたのは「ホルモン剤を使わないで様子を見ます」という言葉だった。 樹木さんが受けた放射線治療は、合わせて31か所。最後は東京の自宅で「子供や孫に自分の死ぬところを見せたい」と語り、それを体現した。 冒頭のスピーチを樹木さんはこう締めくくっている。 「すごい病気になると、すごく面白いことが日常にあります。ですから、楽しんで面白がって。それで自分をよく見て、笑えるような私たちになっていきたいと思います」 植松さんは、10年にもおよんだ樹木さんとの治療を振り返り、最後にこう話した。 「希林さんは治療に関しても、自分でこうすると決めたことに、非常に正直に生きていたと思います。常に自分の体と対話していた。人生、どうしても乗り越えられないことってありますよね。そんなときに、あるがままに受け入れていたのが希林さんでした。私も彼女から人としてたくさんのことを学びました。 特に印象深いのは『おごらず、他人と比べず、面白がって、平気に生きればいい』という彼女の言葉。私にとって、とてもしっくりくる言葉なので、時々思い返しながら日々患者さんの治療と向き合っています」(植松さん) 主治医によって明かされた、最期まで自分らしく生き抜いた樹木さんの姿。三回忌に、彼女の言葉を改めて噛みしめてみたい。 ※女性セブン2020年10月8日号