伊那谷楽園紀行(3)プロローグ:不景気の時代に進化した「地方への逃亡」
東京で暮らそうと思ったら、いろんなことをあきらめなきゃいけない。家を持つという欲望(あるいは見栄)を捨てられるか、車を持たなくても不満なく生活できるか、夜中に足音を立てて帰宅する隣人がいても気にせずにいられるか、子供はたくさんいたほうが楽しいよねなんて考えを捨てられるか……。 そういった諸々をあきらめて、なおかつ自分は東京生活を選ぶという気構えを持てるならそれでいい。(『週刊プレイボーイ』1992年5月5日号) 地方にいけば、都市では考えられないほど、ゆっくりとした時間が流れていて、畑でもつくりながらゆっくりと暮らすことができる。『清貧の思想』の中で記された西行や兼好のような暮らしを、手軽に味わうことができるのではないか。そんな意識が芽生え始めていた。
でも、清貧な部分は長続きせず、すぐに俗なものへとなっていった。都市において、リストラされた人々の流れ着く先として地方が選択肢として浮上してきたのである。地方移住のブームを人口増の機会とみた地方自治体が、盛んに移住者に向けた優遇制度を始めたことが、それに拍車をかけた。定住者へ100万円を5年にわたって支給。永住希望者には100坪の宅地を無償で貸与。一戸建て住宅を格安で賃貸。牛を1頭プレゼント……。 リストラされた世代だけでなく、バブル崩壊を切り抜けて第二の人生を考える50代以上の人々も、こうした施策に飛びついた。 『サンデー毎日』1992年5月31日号では、移住した先で「ハイソ・ドラマ顔負けの優雅な日々」を過ごす人々の姿を紹介している。 朝は6時半に起きると、近所の農家からの頂き物を使った朝食をとって、近所を散歩。「帰ってきて、チューリップ、ベゴニア、スイートピーなどを植えた花壇を見ながら一息していると、農家のお客さんが作物を持って遊びに来てくれて……」「午後は、私はツルが巻きついて枯れた木を切ったり、女房は編み物やメンバーになっている町のテニス協会の皆さんとテニスに行ったりして楽しんでいますよ」。たとえ、リストラされても地方にいけばそんなバラ色の生活が待っていると夢見る都会人は確かにいたのである。 そんな幻想にも、ちゃんと理由がある。90年代には、まだ地方が現在見られるほどに疲弊するとは考えられていなかった。むしろ、これからは本格的に地方の時代が始まるとも見られていた。90年代半ばから、大企業がリストラの一環として行っていた組織改変は、むしろ東京一極集中の時代を終わらせて、地方を活性化させると考えられていた。