阪神歴代最多の打点を記録。驚異的なほどチャンスに強かった猛虎軍団の首位打者・今岡誠
1985年に日本一になって以降、阪神はしばらくリーグの頂点に立てなかった。しかし、2002年に星野仙一がチームを率いると、2003年に18年ぶり8度目のリーグ優勝を記録。その後、岡田彰布監督時代の2005年にも阪神は再びリーグ優勝し、短い間に2度も勝利の美酒を味わうことになった。この2度のリーグ優勝にバットで貢献したのが今岡誠(現・真訪)だ。今回は、驚異的な勝負強さで2度のリーグ優勝を引き寄せた阪神屈指の強打者、今岡の足跡を紹介する。 「1974年」国民栄誉賞&永久欠番の“ゴジラ世代”/世代別ベストナイン
大学時代から強烈だった勝負強さ
地元・宝塚の中学校を卒業した今岡は、高校では名門・PL学園に入学。当時、3年には入来祐作、2年には阪神でもチームメートになる坪井智哉がいた。ただ、名門とはいえ甲子園に出ることは難しく、当時のPL学園は1987年以来、甲子園出場から遠ざかっていた。しかし、今岡が3年時の1992年に、PL学園は久しぶりに春のセンバツに出場。もちろん今岡もその立役者の一人だった。 プロからも注目されていた今岡は、当時阪神から獲得を打診されていたそうだが、スカウトをすべて断り東洋大に進学。大学野球では1年時にベストナインに選出されるなど、早々に頭角を現した。大学時代のハイライトは、やはり大学日本代表だろう。大学では遊撃手だった今岡だが、代表では井口忠仁(現・資仁)にそのポジションを譲って二塁を守り、アトランタ五輪では通算打率.435と勝負強さを発揮した。 この活躍で、今岡は井口忠仁と並ぶドラフトの注目株となった。1996年のドラフトで、今岡は巨人から獲得を打診されることになるが、地元の人気球団である阪神を逆指名。地元出身の期待の若手ということで、虎ファンはチームの将来を背負って立つ男が入ってきたと大いに歓迎した。
早々に非凡なバッティングセンスを見せるが……
吉田義男監督率いる阪神に入団した今岡は、1年目から一軍で起用され、計97試合に出場。63安打、打率.250と期待のルーキーとしてはまずまずの数字で、出場機会に恵まれない時期もあったが、プロの野球に慣れ、一流選手として大成するためにも重要な1年だった。 翌1998年は、開幕2戦目に八番打者で起用されると、そこから徐々に出場機会を増やしていく。特に非凡な打撃センスは当時低迷する阪神の中でもひときわ輝いており、吉田監督は今岡を「二番・遊撃」でレギュラーに定着させる。今岡はこの年は133試合に出場し、チームトップの打率.293をマーク。これはリーグ全体で見ても10位という好成績で、今岡はプロ2年目にして、阪神に欠かせない選手へと成長したのだ。 1999年はチーム再生を図るべく、野村克也が監督に就任。前年好調だった今岡もレギュラーとして起用されたが、シーズン打率は.252と本来の実力を発揮できなかった。スランプに陥った今岡は、翌2000年も低迷し、ついにレギュラーから陥落。野村監督との相性が悪かったことも災いして出場機会は激減し、この年は40試合の出場に終わってしまう。