【看取りで後悔しないためにできること】たった一言で家族も医療者も救われる。
16年にわたり医療現場で1000人以上の患者とその家族に関わってきた看護師によって綴られた『後悔しない死の迎え方』は、看護師として患者のさまざまな命の終わりを見つめる中で学んだ、家族など身近な人の死や自分自身の死を意識した時に、それから死の瞬間までを後悔せずに生きるために知っておいてほしいことを伝える一冊です。 今回は、『後悔しない死の迎え方』の著者で看護師の後閑愛実(ごかんめぐみ)さんと、『ホントは看護が苦手だったかげさんの イラスト看護帖~かげ看~』著者かげさんという2人の看護師が、「いのちの終わりの向き合い方」をテーマに対談し、現役看護師のリアルな現場での実話をお伝えします。(この対談は2019年9月に行われたものです) 【この記事の画像を見る】 ● 2人の看護師が語る 「いのちの終わりの向き合い方」 後閑愛実さん(以下、後閑):患者さんのご家族に、「そろそろ命の終わりが近いです」という話をしたところ、ご家族からは「何回も呼び出されては持ち直して、呼び出されては持ち直して、ということを繰り返したから、『死ぬ死ぬ詐欺』にあったのはこれで7回目です」と言われたことがあります。 かげさん(以下、かげ):あるあるですよね。 後閑:余命って、医師は症状やデータ、経験などから言うけど、臨床の統計では3割しか当たらないと言われていますし、当然長いほうに外れるほうがいいけれど、短いほうに外れてしまうこともある。そこに執着するよりは、いいことを期待しながらも悪いことに備えるということが大事だと思うんですよね。 かげ:救命センターでも、いろんな理由で延命できない、しないという場合に同意を取ったら(DNAR)、個室に移動してご家族に患者さんのそばについていてもらうんですけど、医療者側が考える以上に心臓は動き続けて、そのまま家族が付き添い続ける中、何時間も、ときには1日過ぎてしまうこともあって、「もう間に合わなくていいので帰らせてください」とご家族に言われたりすることもあります。 後閑:救急に運ばれた患者さんからしたら、それは突然でそれこそ必死ですもんね。家族が近くにいたら、患者さんは頑張るでしょうし、一緒にいたいだろうし。 私も夜中にご家族を呼んだら、やっぱり丸一日ぐらいもって、ご家族も「疲れてしまったからそろそろ帰ります」となったときに、お孫さんが「ばあちゃん、もう頑張らなくていいよ」と言ったら、その数分後にお亡くなりになったということがありました。聞こえていたのかなって、そのとき思いました。 かげ:聴覚は最後まで聞こえるって言いますもんね。 後閑:おばあちゃんはそのお孫さんが大好きで、お孫さんもおばあちゃんが大好きで、毎日お見舞いに来てたんです。だから、おばあちゃんはずっと孫が心配だったんですよ。だけどそのお孫さんが「ばあちゃん、もう頑張らなくていいよ」って言ったから、「わかった、もう私がいなくても大丈夫なのね」って安心したんじゃないかな。 ところで、かげさんは今、救急にいるんですか? かげ:そうです。5年以上看護師をしてるんですが、もともとスタートは外科が中心の病棟で、救命に来たのは数年前です。 救急へ異動して感じたのは、思っていたのとは違ったということです。自殺の人もいれば、普通にいつも通りに仕事をしていた人が心筋梗塞でそのまま亡くなってしまって、その死をご家族が受け入れられないということもあります。こちらでは死にたかったのに生きていると落ち込んでる人にどう介入するのかを悩み、あちらでは生きたかったのに亡くなってしまった人のご家族にどう声をかけようかと悩んで。 助かりはしたけれども、もうこれ以上何もできないというときに延命をどうするか、人工呼吸器とか胃ろうとか、そういうときのご家族の意思決定支援など、今までならしなかったなという体験をたくさんしています。自分だったらどうするんだろう、というのをすごく感じます。 全然答えは出ていませんけど、こういうときはこうすればよかったのかと思ったり、ここにいる患者さんのご家族はこうしたけれど、私はこうしたいなと思ったりすることがあります。 私のイメージだと救急は、あらゆる疾患、解剖生理、治療、薬といったものをすべて勉強できて、身体のことについて学べるところと思っていました。しかし、思っていたのとは違いましたが、学びは多かったかなって。結果的にはいい経験ができたと思っています。 後閑:救急にいる知り合いからも自殺者が多いと聞いたことがあり、私も思っていた救急のイメージと違うことに驚きました。その人の幸せだったり、暮らしに直結する助けになったり、その人にとって必要なことは「医療」だけじゃないなと思いました。