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【私の“奇跡の一枚” 連載72】 双葉山と肝胆相照らした 我が祖父・今池昇松

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ベースボール・マガジン社WEB

 一年納めの九州場所が終わり、もうすぐ双葉山の命日がやって来る。今年(平成29年)は五十回忌の節目。昭和43(1968)年12月16日、双葉山は劇症肝炎のため56歳の若さで亡くなった。実はそれに先立つ11月28日私の祖父・今池昇松が87歳で亡くなり、九州場所をすませたばかりの双葉山の時津風理事長が、病身を押して葬儀委員長を務めてくださっていた。

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。  相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。  本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。 ※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。

義父にして盟友……

 祖父が双葉山の身内の大恩人ということはよく知られており、当時としてはとてつもなく豪華な葬儀となった。それが、祖父を見送ると後を追うように20日もたたず双葉山も亡くなってしまった。  双葉山の親戚筋でもあった昇松は若い時代に一念発起、大分県から北朝鮮に渡り、ブリキ職人から身を起こして大成功を収めた人物。手広く事業を行い、平譲の南にある沙里院では競馬場、動物園まで所有。『双葉』という大料亭も繁盛しており、贅を極めた庭はつとに有名だったという。  2人の年は30歳ほど違った(祖父が上)が、まさに肝胆相照らす仲で、昇松は現役の双葉山の大タニマチであり、腹心の友でもあった。  双葉山をもしのぐ長身の偉丈夫だった祖父の若いころの風貌は、世界的大俳優のジャンギャバンにも似ていたという。2人ともあまり酒も飲まず、寡黙な人柄。言葉を交わさなくても、その心は深く通じ合っていたようで、稽古場の火鉢を挟んで灰均(なら)しをしながら2人が一言も会話を交わさぬまま、何時間も過ごしていた等のエピソードには事欠かない。  そんな絶頂の時代を経て、終戦を迎えた祖父は引き揚げを余儀なくされて日本に帰ってきてからも、双葉山道場の近くに家を構え、心のサポーターであり続けた。また祖母のミサは明るく気の利いた世話役で、時津風理事長の身辺から、澄子夫人、子どもたちの面倒見に至るまで甲斐甲斐しく務め、親も同然。  そんなことから私たち孫も、物心がつくころには、元双葉山の時津風理事長のことを「道場のおじさん」と呼んでいた。また私の父は双葉山の弟子の鏡里で、母であるツネ子はこの昇松の娘。聞けば、「今池の家で贅沢に育ったお前は、一般家庭じゃやっていけないよ。それより鏡里と一緒になれ」と双葉山に勧められて結婚することになったのだという。だから母の意識も、双葉山は主人の師匠というよりも、やはり「道場のおじさん」に近かったらしい。  鏡里の娘、息子である私たち3人きょうだいもこの「おじさん」が名付け親。親方の総領の経治さん、愛娘の博子さん(15歳の若さで亡くなった)に続く子どものように可愛がってもらった。なかでも私は末っ子みたいに甘え放題(だったらしい)。そういったことから、いま双葉山を身近に知る一番若い人間は、どうやら現在57歳の私となるようだ。  大横綱双葉山、その双葉山を物心両面で支えた祖父今池昇松、双葉山を師と仰ぐ父鏡里。それらの庇護の中で育てられたからこそ、平凡な私にもそれなりの今日がある。墓参りをするたび感謝と誇りでいっぱいになるのがこの時期なのである。 語り部=奥山満(元横綱鏡里こと立田川喜代治次男) 月刊『相撲』平成29年12月号掲載

相撲編集部

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