〈エアコン設置から自衛隊配備、大阪都構想まで〉住民投票は直接民主主義なのか? 大阪大学・砂原庸介
住民投票をどう「使う」か
住民の拒否権として住民投票を考えるのは、その意義を狭く取り過ぎているという考え方はあるかもしれない。議会の決定とは無関係に、住民が直接民主主義的な決定をすべきだ、という主張もありうるだろう。しかし、住民(あるいは議会の少数派)が住民投票を用いて、能動的に政府を動かそうとするのは複雑な現代行政を前提にすると非常に難しい。具体的な決定は、「はい」か「いいえ」で単純に割り切れるものではなく、投票によって決められたことを長や議会が実行に移していく中で、住民の意思と離れていくこともありうる。また政治家の行動を厳しくしばるように費用など具体的な内容を決めておくと、あとで実現困難であることが発覚して困ることがあるし(※5)、逆に曖昧な内容で投票をすると、政治家が住民に責任を転嫁しながら勝手な行動を取る危険性が高くなる。 住民投票の意義を考えるとき、憲法や「大都市地域特別区設置法」のような法律で定められた住民投票は、政治家が行う重要な決定を住民が認めるかどうかという論点に集約されるので、本来その責任の所在はわかりやすい。認められた決定はそのまま実行に移されるし、拒否されたものはそれまでである。住民の側からすれば、仮に決定そのものの内容が分からなくても、議会の決定を信頼できなければ端的に拒否すればよいわけだ。 その意味では、「大阪都構想」に一貫して反対しながらも、2014年末に突然住民投票の実施を認めた公明党の行動は、住民投票の意義を変えてしまった。本来、議会の多数派がまとまって決定をすることで、その決定を住民が認めるかどうかという拒否権の意義が出てくるのに、議会としての責任が不明確なかたちで決定を住民投票の判断に委ねることになったのだ。そのため、論点が「議会の判断を拒否するか」ではなく「決定の内容に賛成か反対か」となり、様々な解釈が可能な内容を住民がそれぞれに判断することになる。住民がそれぞれに内容に対して解釈や期待を持つのに、「住民が判断したことだから望ましくない結果になってもしかたがない」と全て住民に責任を負わせるのであれば、そもそも議会の審議は必要ない。本当に住民にとって望ましくないものだと考えるのであれば、議会の場できちんと否決して、その責任を選挙で問われるというのが筋というものだろう(※6)。