大谷翔平が発言「人生最高の試合」たった1人、大谷からタイムリーを打った男の“その後”「仙台育英で3年間ベンチ」「大学野球部をわずか3カ月で退部していた」
「なぜ大学野球部を3カ月で退部したか」
――笹川さんは高校卒業後は同志社大学でプレーを続ける予定だったものの、わずか3カ月で退部してしまったんですよね。 笹川 そもそも肩を壊して、ボールが投げられなくなってしまったというのもあるんです。そのタイミングで、嫌な先輩に濡れ衣を着せられるような事件が起きまして。もう、辞めようと。野球文化に対して失望してしまったのもあると思います。同志社っていったらすごく優秀な大学じゃないですか。その優秀な大学でもこんな人がいるんだ、って。 ――話を聞いていると、いわゆる体育会的なノリに笹川さんは馴染めないんでしょうね。 笹川 昨年夏、甲子園で慶應が優勝したときはすごく嬉しかったんですよね。これをきっかけに何か変わりそうな気がして。
同学年の大谷翔平に…「有名人なりの苦悩もあるだろうな」
――今はお祖父様が創業した産業廃棄物の処理やリサイクルを担う会社に勤めているんですよね。家業を継ぐことに抵抗はなかったのですか。 笹川 ぜんぜんありませんでした。ニッチな業界なので、もともとファミリーカンパニーでやっていくんだろうなという風に思っていたので。 ――今、仕事をしていて、大出世した同世代の大谷を意識することはありますか。 笹川 野球をやっていたら、なにくそって思っていたでしょうね。でも今、自分が生きているところとはまったく関係がないので、単に鑑賞の対象という感じです。ただ、みんなすごいすごいとはやし立てていますけど、有名人なりの苦悩もあるんだろうなと思ってはいます。ちょうどいいところで生きていられるのって幸せなことなんだろうなと思ったりして。 ――2022年夏、仙台育英が東北勢として初めて日本一になったときは、どのように感じていたのですか。 笹川 あのとき、甲子園に観に行っていたんです。感動しましたね。ようやく歴史が動いた、と。仙台育英という名前自体に抵抗感はないんです。仙台育英の野球部というと、ちょっと反応しちゃうんですけど。だからかな、学校に寄付したことはあるんですけど、野球部に寄付したことはないんですよね。 <前編《最初の大谷伝説》編から続く>
(「野ボール横丁」中村計 = 文)
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