「かわいそうだと思うなら、助ければいい」 雨宮処凛さんが「死なせる」ことが解決と考える人に訴えたいこと
インターネットでの「死にたい」共同体
ーーALSの彼女は安楽死を認めてほしいという目的とはいえ、ブログやTwitterを介して外の人とつながりました。その中の一人があの逮捕された医師たちで、彼女の思いを肯定して、死の方向に後押しをしました。それこそが「本人の意思を尊重する」というなんだという考え方です。また生前、彼女と交流を持っていた人たちが今、「安楽死を制度化せよ」と声をあげています。 それは危ないです。SNS上で死に向かう共同体が偶発的にできているということですね。それはネットが普及し始めた2000年前後頃の自傷系サイトや自殺系サイトの状況と似ている気がします。 掲示板で「死にたい」人どうしが話しているうちに「もう死ぬしかないよね」となってしまう。少なくない自殺者が出ましたし、一部、ネット心中という形にもなりました。2003、04年ぐらいまでそういう共同体がたくさんあったと思います。 自殺がテーマの掲示板では「死のう」という話になるわけです。Twitterで知り合った9人を殺した座間の事件も被害者が「死にたい」などと書いていたことがきっかけだった。 「死にたい」までいかなくても、生きづらさを抱える人たちがネットでコミュニティを作ると、理解者ができて良い形になることもありますが、その気持ちを後押ししてしまう危険性も孕んでいます。
「本音」を言う統治者と一体化する人々
ーー相模原事件後、優生思想や命の選別に基づく発信や事件がたくさんありました。裁判をして、死刑判決となりましたが何か解決したとか、再発防止策が取られたような気がしません。 30年以上かけて作られてきた「少子高齢化だから何もかも足りません」という刷り込みたるや、物心ついた時から常に日本ではホットな話題であって、この時限爆弾はいつか爆発するとずっと脅されてきました。 植松は障害者を殺せば税金が浮く、色々解決されると主張していましたが、障害者福祉の予算は日本の一般会計の1%程度にしか過ぎない。そういうことを言い続けるしかない。 「少子高齢化で大変だ」「高齢者が増えて肩車式の財政になる」というのを国をあげて宣伝してきたことの結果が、相模原事件であり、人工透析中止事件であり、ALS患者の嘱託殺人であり、長谷川豊氏の主張であるということです。 その人が幸せなのか、勝手に人の人生の質を誰かがジャッジすることが許され、それが常に財源論とセットで出てくる。日本の貧しさが極まっているのがこのあたりの話だと思うのです。 誰かの生活の質が高い、低いを決める権利は誰にもない。だからこそ命の選別はだめなわけです。全て、「あなたは神様なんですか?」という質問で跳ね返したい。 そして、もっとも苦しいはずの人たちが、弱者として声をあげるのではなく、トップや経営者のマインドで議論してしまう。強い者と一体化すると楽ですが、一体化するとその価値観になってしまう。 「いらないやつは殺せ」「切り捨てろ」という価値観だけど、自分がその対象になることを考えない。 ーートランプ大統領を支持していた植松死刑囚が、その影響について「真実をこれからは言ってもいいんだと思いました」というのも印象的でした。「俺は現実も見て、綺麗事ではなくあえて本音を言う」という態度が賛美されるのは日本でも見られることですね。 政治家なのに建前を言わない、本音を言っているとして、魅力的だと評価される。そういうことで、石原慎太郎や麻生太郎の発言は許されてきましたよね。いくら二人が命の選別発言をしようとも、「石原節」「麻生節」としてしまったメディアの責任は大きいです。 トランプも「トランプ節」ですが、その言葉が流通して、植松を極端な形で動かしてしまっても誰も責任は取れません。そういう雑な議論、言葉がどれほど危険かは自覚しないといけないと思います。