「かわいそうだと思うなら、助ければいい」 雨宮処凛さんが「死なせる」ことが解決と考える人に訴えたいこと
相模原市の知的障害者入所施設で、元施設職員の植松聖死刑囚が2016年7月26日未明、入所者19人を刺殺し、職員を含む26人に重軽傷を負わせた「相模原事件」から4年。 植松死刑囚の裁判を傍聴し続け、『相模原事件・裁判傍聴記 「役に立ちたい」と「障害者ヘイト」のあいだ』(太田出版)を出版した作家の雨宮処凛さんは、この国が植松死刑囚を生み出すべくして生み出したという思いを強めてきた。 相模原事件以降、ますます進んでいるという命を大事にしない社会の空気はなぜ醸成されてきたのか。そして、第二の植松死刑囚を生まないために、何ができるのか。 【BuzzFeed Japan Medical / 岩永直子】
複雑な議論を飛ばしてなぜか「統治者目線」
ーー何かの問題意識を持ってから、一気に短絡的な結論に向かってしまうという「ショートカットの思想」は、SNSなどの議論でもよく見られます。この本でも現代社会では「これさえやれば全ての問題が解決する」という議論がされがちと書かれていましたが、植松死刑囚もそういう議論の仕方に影響を受けていたと思われますか? 彼の場合は、障害者を殺せば、戦争もなくせるし、難民問題も解決できると法廷で繰り返した。障害者さえいなくなれば世界はバラ色、のようなめちゃくちゃなショートカットをして、でも、その思考は今時っぽいなとも思います。 さらに、常に統治者目線、王様の目線で見ているところがまさに今時っぽいと思いました。 なぜ一施設の職員が、国家の財政をあれほど憂いて自分の力で解決しなければならないと思ったのか。一労働者の目線ではなく、統治者目線で俯瞰して、「予算がないから障害者はいらないんだ」と言う。 少なくない若い世代に広く蔓延する「経営者マインド」のような視点はどこから来るのだろうと思うのです。 植松は30歳ですが、私より10歳ぐらい下の世代にはそういうマインドを強く感じます。例えば、時給を上げろというデモを見た若者が、「いや、中小企業が潰れるだろ。現実を見ろ」と言ったりする光景はよくあります。 自分が時給1000円くらいで働いてるのに、なぜか経営者目線。こういう作法はいつから生まれたのでしょうか。 同時に、「これさえなくなれば全て解決する」というあり得ない考え方もこの10年ほどでよく見ますね。格差社会が深刻化していることによる思考停止の問題とすごく関係あるような気がします。 ーー植松死刑囚も事件直前には精神病院に措置入院させられたりして、自分の方が排除されるかもしれないという危うい立場に置かれました。一方、本の副題にもなっていますが、植松被告は「国や世界のため」と犯行予告を衆議院議長に送り「社会に役に立つ人間になりたい」という強烈な願望を持っていました。これは、不安の裏返しでしょうか? 不安の裏返しもあるし、私たちの世代や上の世代がこの20年ぐらいの格差の問題を色々解決しようとしてきたけれども、結局良くなっていないじゃないかという責める気持ちをぶつけていることも多々ある気がします。 なんとなく、「何をやってもダメだったじゃないか」という怒りや諦めがあったのだと思います。上の世代は無能だし、社会に文句を言ったり、変えようとしたりしても無駄なんだという、ものすごい諦めを感じるんですね。 思考停止やショートカットがここまで蔓延するのは、何一つ解決しなかったじゃないかという無力感もあるのだと思います。 それより、「〇〇が悪い」と言った方がスカッとする。考えて、分析して、構造を紐解いても、それが何になるの?という。アカデミックな議論や社会活動家の行動に対して、「無駄」だとバカにしているし、何のリスペクトもないですよね。 そうなると、俺や私がガス抜きさえできればいいんだ、と思ってしまう。「根本解決なんて求めていないから放っておいてくれ」と突き放す姿勢を感じます。