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『黒い十人の女』オリジナルに垣間見る市川崑テイスト

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CINEMORE

ご褒美として作られた『黒い十人の女』

 いつも思うことだが、映画が不思議というか不可解なのは、作り手が思い入れたっぷりに力を注いだ力作が、必ずしも傑作にはならないという事実だ。数多くの名作を送り出した市川崑にしても、それほど乗り気ではなかった企画の方が秀作になってしまうというジンクスがある。  三島由紀夫の『金閣寺』を映画化した『炎上』(58年)にしても、近年、塚本晋也監督によって再映画化された『野火』(59年)にしても、市川崑自身は実は、それほど映画化に積極的ではなかった。周囲に勧められるうちに、その気になっていったというのが実情のようだ。  なーんだ、と思いそうになるが、逆に原作に惚れ込みすぎると、客観的に見えなくなり失敗作になることがある。むしろ、映画向きではないと思っていた原作を、映画にするにはどうすれば良いかと戦略を練ることが、優れた脚色を生み出すようだ。  『炎上』(1958年度キネマ旬報ベストテン4位)、『野火』(1959年度キネマ旬報ベストテン2位)、『鍵』(1959年度キネマ旬報ベストテン9位)と、難易度の高い文芸映画の映像化を成功させてきた市川崑は、幸田文原作の『おとうと』(60年)で、1960年度キネマ旬報ベストワンを、ぶっちぎりの大量得点で受賞した。  当時、市川崑は大映に所属しており、『おとうと』の〈ご褒美〉のような形で、次回作は好きな企画を作っていいと言われる。そこで、妻で脚本家の和田夏十と共に企画したのが『黒い十人の女』である。つまり、突然変異的に作られた妙な映画ではなく、それまでの実績によって、オリジナルで自由奔放に作りたい映画を作ることができる環境が用意されたからこそ実現した作品なのである。

市川崑の実体験が反映された創世記のテレビ業界

 『黒い十人の女』は60年代初頭を舞台に、妻を含めた関係を持つ10人の女たちが共謀し、主人公の男を殺害しようと企てるというブラック・ユーモアにあふれたミステリー風味の物語だ。オリンピック前の牧歌的な時代に、仕事と時間に追われ続け、人間関係ばかりか女性関係までドライな主人公に相応しい仕事として選ばれたのが、当時、最先端の職業であったテレビ局のプロデューサーだった。  日本の民間テレビ放送第1号となる日本テレビの開局が1953年。そこからわずか8年しか経っていない時期に市川崑がテレビ業界を舞台にしたのは理由があった。  この時期、市川崑は日本テレビの演出顧問をしており、映画監督のテレビドラマ進出としては最も早い存在の一人だった。1959年だけで、『恋人』『冠婚葬祭』『恋飛脚 大和往来 封印切の場』『隣の椅子』、1960年には『足にさわった女』『駐車禁止』、1961年は『檸檬』『破戒』と、映画で話題作、秀作を相次いで発表しつつ、テレビでも次々に演出作を手がけていた。最初は生放送だったが、やがてVTRへ、モノクロからカラー放送へと、わずか2、3年で急速に技術革新が進むテレビの世界で意欲的な作品を撮り続けていた。  しかし、映画はネガさえ残っていれば『黒い十人の女』のようにニュープリントを焼いて甦らせることができるが、創世記のテレビ番組の大半は残っていない。市川崑のこれらのテレビ作品も例外ではない。なお、『恋人』『足にさわった女』は市川崑がかつて撮った映画のリメイクだが、『破戒』は連続ドラマとして製作されたものが好評だったことから、翌年、市川崑の手で映画としてセルフリメイクされており、映画とテレビの関係が、あっという間に逆転したことを実感させる。  こうした市川崑のテレビ体験が、『黒い十人の女』に反映されたことで、当時は露骨だった映画人がテレビを見下すような作りになることも、テレビ人を現実離れした存在に描くこともなく、リアルを基調にしつつカリカチュアされたキャラクター作り出せたと言えるだろう。  ちなみに、船越英二が演じたテレビ局のプロデューサーにはモデルがいる。前述の市川崑がテレビで演出を担当した全作をプロデュースした日本テレビの若尾初男プロデューサー。どの部分までモデルにしたのかは不明ながらも、若くして亡くなったと聞くと、映画を観た後では何とも複雑な気分になってしまう。

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