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趙雲~「全身これ胆」の名将【中国歴史夜話】

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サライ.jp

文/砂原浩太朗(小説家) 蜀の武将・趙雲(ちょううん。?~229)は、三国志のなかでも独特な存在だと感じる。朋輩である関羽や張飛と遜色ない活躍をしめすものの、さほど個性のつよい人物として描かれてはいない。いわば、あくまでナンバー3の位置にとどまっているのだ。が、それでいて、他の将をしのぐ存在感と評価を得てもいる。「全身これ胆」とまでたたえられた武人の実像は、いかなるものなのか。

長坂の大活躍

趙雲といえば、まっさきに挙がるのが、長坂(ちょうはん。長阪とも。湖北省)での活躍。西暦208年、赤壁の戦いに先立ち曹操軍が南下、いまだ荊州(おもに湖北省および湖南省一帯)の客将にすぎなかった劉備はこれをささえきれず、逃亡した。このとき曹軍に追いつかれ、撃破された場所が長坂である。乱軍のなか妻子さえ打ち捨てるほどの敗北だったが、趙雲が嫡子・劉禅と生母の甘夫人を守り抜いた。小説「三国志演義」では、彼が生後まもない劉禅を抱いて戦場を駆け抜ける場面が読ませどころだが、正史にもはっきり「幼子(劉禅)を抱いて」と記されているから驚く。劉備から、「趙雲は全身これ胆である」と評されたのも道理というべきだろう。趙雲は後年、呉へ拉致されそうになった劉禅を取りもどすという功績もあげているから、二度にわたって跡継ぎを救ったこととなる。 なお、劉禅の幼名として知られる「阿斗(あと)」は正史に記載がなく、「演義」ないし、それ以前に流布した芝居や講釈で創作されたものと思われる。また、長坂の戦いではほかにも有名な場面が多く、劉備の妻ふたりのうち糜(び)夫人が深傷を負い、足手まといにならぬよう自ら井戸へ身を投げるというのもその一つ。これは創作だが、甘夫人が趙雲のおかげでことなきを得たと正史に明記されているため、くわしい叙述のない糜夫人を使い、劇的なストーリーを創りだしたのだろう。

劉備との出会い、そして再会

趙雲は常山(じょうざん。河北省)の出身。背も高く、人目を惹く容姿の持ち主だったと伝えられる。もと群雄のひとり公孫さん(「さん」は王に贊)の配下だったが、流浪時代の劉備もまた、公孫さんの知遇を得た時期があった。このころ、二人していくさへ出ることもあったというから、そのあいだに親交を深めていったのだろう。やがて劉備は独立し、みずから群雄のひとりとなるが、趙雲がいつ劉軍の一員となったか正確なところは不明。劉備が独立する際に引き抜いた可能性もあるが、正史の註では、西暦200年、曹操にやぶれ、袁紹のもとへ身を寄せた劉備を趙雲が訪ね、召し抱えられたという話を紹介している。この前年に公孫さんが滅んでおり、浪々の身となった趙雲が、劉備との交誼を思い馳せ参じたのである。 ついに趙雲を得たことが心底うれしかったらしく、劉備は彼とひとつ床に眠るほどの親しみを見せた。これは最大級の結びつきをあらわす表現で、関羽や張飛についても用いられている。「演義」では、長坂の乱戦で趙雲がはぐれた折、曹操方へ寝返ったという流言がひろがるが、劉備はいささかも耳を貸そうとしなかった。やはり正史の註に、ほぼこれと同じ話が採られており、趙雲への信頼がこの上なく厚いものだったことがうかがえる。

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