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大正時代に米プロ野球チームで活躍した日本人、早大出身「三神悟朗」に残された謎

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デイリー新潮

にっぽん野球事始――清水一利(17)

 現在、野球は日本でもっとも人気があり、もっとも盛んに行われているスポーツだ。上はプロ野球から下は小学生の草野球まで、さらには女子野球もあり、まさに老若男女、誰からも愛されているスポーツとなっている。それが野球である。21世紀のいま、野球こそが相撲や柔道に代わる日本の国技となったといっても決して過言ではないだろう。そんな野球は、いつどのようにして日本に伝わり、どんな道をたどっていまに至る進化を遂げてきたのだろうか? この連載では、明治以来からの“野球の進化”の歩みを紐解きながら、話を進めていく。今回は第17回目だ。  ***

 シカゴ大学が早稲田に、そして、日本の野球に与えた影響は計り知れないほど大きかった。そして、それは第1回の定期戦に7番・左翼手として出場した1人の早稲田の選手の人生も大きく左右した。  その選手の名は三神悟朗という。  1908(明治41)年、甲府中学から早稲田に入った三神は当初、投手として起用されたが、中学の先輩だった飛田穂洲に「三神はただ単に球を投げることを知っているにすぎず、技術は何もないに等しい」といわれたほどでまったく通用せず、試合には出場しない打撃投手を務めていたという。  しかし、その後、外野手に転向すると生来の素質が開花。レギュラーを獲得するとともに1911(明治44)年のアメリカ遠征のメンバーにも選ばれるほどの活躍を見せた。そして、三神はシカゴ大学との定期戦に出場した際、そこでシカゴ大学の選手たちのプレーに触れ、本場の野球のレベルの高さに圧倒されると同時に「アメリカの地で野球をやりたい、自らの力がどこまで通用するのかを試してみたい」との強い思いを抱くようになる。  もともと三神は独立心に冨み、一度思い込んだらどんなことがあってもやり遂げる強いハートの持ち主だったらしい。早稲田を卒業すると単身渡米。ノックス大学へ留学すると野球部に籍を置いて「この日本人選手こそ、わが校の命といってもいい。彼が走塁を始めたら誰も彼をアウトにすることはできない」と部史に記録されたほどの活躍を見せた後、プロの世界へと飛び込んだ。  とはいっても、三神がプレーしたのはもちろんメジャーリーグではない。当時のメジャーリーグは白人だけの閉ざされたリーグであり、いくら実力があったとしても有色人種は参加が許されていない世界である。三神がプレーをしたのは二グロリーグ、黒人など有色人種の選手たちによるリーグだった。  1914(大正3)年、三神はプロチーム「オール・ネイションズ」に入団した。このチームは全米各地を巡業しながら試合を見せるというチームで、三神の華麗なプレーぶり、特に俊足を生かした走塁や守備範囲の広いフィールディングでアメリカのファンからも人気を集めていたという。  オール・ネイションズに「ジャップ・ミカド」というニックネームの日本人選手がいたことはアメリカの野球史研究家の間では、かなり以前から知られていた事実だった。しかし、その正体は長い間不明のままだった。  1994(平成6)年、三神がオール・ネイションズでプレーしていたことが作家の佐山和夫氏や横田順彌氏などの研究によって明らかになり、それ以来「三神=ジャップ・ミカド説」が定説とされた。  しかしながら、その後の調査でジャップ・ミカドは、三神以前にチームに所属していた東洋人に付けられたニックネームだったという可能性も否定できず、その真相は、いまだ明らかにはなっていない。  とはいえ、1964(昭和39)年、日本人初のメジャーリーガーとしてサンフランシスコ・ジャイアンツに入団したマッシ―村上こと村上雅則よりも50年も前にアメリカでプレーした日本人選手がいたということは紛れもない事実なのである。  ちなみに三神はオール・ネイションズを退団した後、イリノイ大学に進学して経済学を専攻。日本に帰国してからは三井物産に就職して、その後は1人の有能なビジネスマンとして野球とは一切関わらない人生を送り、1958(昭和33)年、68歳で亡くなった。  生前の三神は会社の同僚やマスコミはもちろん、家族にさえも自らのアメリカでの体験を話すことは一度としてなかったという。彼がどうして自らの貴重な体験を封印してしまったのか、これもまた大きな謎である。 【つづく】 清水一利(しみず・かずとし) 1955年生まれ。フリーライター。PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰。著書に「『東北のハワイ』は、なぜV字回復したのか スパリゾートハワイアンズの奇跡」(集英社新書)「SOS! 500人を救え! ~3.11石巻市立病院の5日間」(三一書房)など。 週刊新潮WEB取材班編集 2020年6月6日 掲載

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